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古来伝統の「栩葺き」
仏教の伝来は、単に思想的な変革のみならず、建物の建築様式にも大きな影響を与えた。
寺院の主要な建物は、礼拝の対象となる仏像や舎利を安置する場所でもあり、より堅固につくる必要がある。その建物の耐久性を保つためには、屋根構造が重要なポイントにもなった。雨漏りはもってのほか、雪国では積雪に対応するための工夫も必要で、屋根が建物の寿命を左右するといっても過言ではない。
6世紀末、蘇我馬子(そがのうまこ)によって創建された、わが国最初の本格的な寺院である飛鳥寺。その建立に際しては、百済(くだら)から僧、寺工、瓦博士、露盤(ろはん)博士(鋳造技術者)、画工といった14人の造寺プロジェクトチームが派遣されているが、6人の僧を除いても瓦博士が4人と、寺院建築において屋根がいかに専門性を有するものであったかが窺(うかが)える。以後、檜皮葺(ひわだぶ)きに代表される神社建築に対し、瓦葺き建物は寺院の代名詞ともなった。
例えば、かつて神道においては汚れを忌み、仏教をしりぞける思想から「忌詞(いみことば)」が生まれたが、伊勢神宮で用いる斎宮忌詞(さいぐういみことば)には、仏教関係の内七言(うちしちごん)があって、その中で「瓦葺(かわらぶき)」が寺を表す忌詞として使われたのはその顕著な例である。
宮殿に瓦が用いられるようになるのは、飛鳥寺に遅れること約1世紀、藤原京以後のことであった。
だからといって、檜皮葺き・板葺きなどに代表される植物質の屋根が、瓦葺きに劣るということでは決してない。これらは我(わ)が国の気候風土が生み出した古来伝統の屋根葺き技術であって、瓦葺きが伝わってからはその技術に影響され技法・外観ともにさらに洗練されていった。なんといっても、森林国日本において材料の確保・加工を考えた場合、圧倒的に植物質の屋根材が理にかなっていたはずだ。
先にも触れたが、慧日寺跡では長年に及ぶ発掘調査において、全く瓦が出土しておらず、植物質の屋根材であったことが推測されている。一口に植物質といっても、板葺き・茅(かや)葺き(草・葦(あし)・薄(すすき)・藁(わら)葺きなどを含む)・樹皮葺き(檜皮・杉皮など)など多種多様である。しかもこれらは腐敗に弱く、また火災・建て替え等で焼失・廃棄された場合、ほとんど従前の姿を知る手立てはない。
慧日寺も1千年を超す歴史の中で、戦乱・火災によって被災し、その上、平地の寺院と異なって大きく遷地して伽藍(がらん)を移すことがなかった。つまり、同じ場所に何度も建物が建て替えられたため、焼失材などの古材は余計に残りにくかったのである。
今回の復元に際しては、山間地の地方寺院という立地条件を加味して種々の検討を重ね、「栩葺(とちぶ)き」という手法を採用した。あまり聞きなれないことばだが、板葺きの一種である。板葺き屋根には、板の厚さによって柿葺(こけらぶ)き、木賊葺(ときさぶ)き、栩葺きの種類があって、このうち最も厚い板を使うのが栩葺きである。
柿葺きは、長さ30―40センチ、厚さ5ミリ前後のサワラやスギの手割り板を使って葺足(ふきあし)を3センチ程度に重ねて葺く技法であるが、これに対し、厚さが1センチ以上の板を使い、葺足9センチ前後のものを栩葺きと呼んでいる。県内では、いわき市の国宝白水阿弥陀堂の屋根が有名だ。阿弥陀堂は、明治36年の冬に暴風のために半倒壊しているが、その後約1年をかけて行われた解体修理に際して、茅葺きから栩葺きに改められている。
また、信州善光寺では、現在重要文化財の三門(山門)の大修理が行われている最中であるが、ここもまた栩葺きだ。採算性などを考慮して大正年間には檜皮葺きにされたものの今回の修理では本来の栩葺きに復元されている。五間三戸(ごけんさんこ)の二重門。年内には日本最大の栩葺き建造物が甦る。
(磐梯山慧日寺資料館学芸員)
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白岩賢一郎
【 6 】
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今夏より葺き上げが始まる金堂の屋根 |
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栩葺き屋根の白水阿弥陀堂 |
【2007年5月16日付】
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