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看過できない「乱入在所」
例えば、山城国に光明山寺(京都府木津川市)という山寺があった。平安時代に創建された山岳道場としても知られ、浄土教の成立にかかわった僧侶を数多く輩出したことでも有名だ。摂関家の擁護の下、盛時には120もの堂舎があったという。古来、ここでは毎年春に近傍の住民によって山焼きが行われていたが、開発の進行とともにその火は次第に山上の堂舎に迫り、ある時期には参道の松や卒塔婆(そとうば)が焼かれてしまうまでに至った。
業を煮やした寺側では長治元(1104)年、いよいよ右大臣藤原忠実(ふじわらのただざね)に訴えることになる。その後永久5(1117)年、寺は関白家の御祈願所となって寺領四至(しし)が定められ、その中でようやく樹木伐採・狩猟が禁止されることになった。
また、備前国、現在の岡山市北西の山中には、天平勝宝元(749)年に報恩大師(ほうおんだいし)が勅命(ちょくめい)により建立したという金山寺(きんざんじ)がある。中世から近世にかけては、当地方天台第一の古刹(こさつ)として名を馳(は)せ、備前48カ寺の本山でもあった。ここでは、在庁并(なら)びに農民が院内林樹木をことごとく用材として伐採してしまったという事態が生じている。
これに対し寺側は、仁安3(1168)年、寺院内の樹木は「仏陀荘厳(ぶっだしょうごん)、神明厳餝(しんめいげんしょく)之料」として伐採を禁じてほしいと備前国留守所に訴え出る。と同時に、寺領の四至を形成して山林開発の進行に対抗した。後年、訴えを聞いた鎌倉幕府は、甲乙(こうおつ)の輩(やから)が山内に乱入し狩猟並び樹林を伐きり枯らすことを禁じている。
ここで再び「恵日寺絵図」に目を戻してみよう。中心伽藍(がらん)の右側(東側)には三条の川が南北に流れくだり、その間には当時すでに廃堂になっていたであろう建物跡が礎石跡で表現され、寺名まで付記している。地形上では標高600メートル以上の山中であることから、礎石であれば実際には叢林(そうりん)に埋もれて目にすることはなかったであろう。
しかしながら、あえて描画したその背景には、山中・山林が中世の慧日寺にとって依然重要な空間であったことを物語っている。さらに目を引くのが、絵図中央やや下側に描かれ「乱入在所」と墨書された白塗りの一角である。機会あるごとに方々の研究者に尋ねてみているが、何を意味するのか明確には分からないという。決して大きな範囲ではないが、「乱入」という表現からすれば、当時の慧日寺にとって看過できない不都合な存在、しかしながら描かざるを得ない一帯が門前にあったに違いない。
「応安4(1371)年4月4日恵日寺塔供養」(『会津旧事雑考(あいづくじざっこう)』)、「応永25(1418)年金堂並神社僧坊什物疏記(そき)悉焼亡矣」(「陸奥国会津河沼郡恵日寺縁起」)発掘調査では、講堂跡地に三間堂が建てられたのが14世紀前半以降であることが確認され、また、現在の恵日寺本尊である千手観音菩薩立像は14世紀後半ごろの造立と推測されている。
このように、中世慧日寺は伽藍の改変期、さらには大火による復興の時期に重なる。堂塔から坊舎まで、その建築材の需要は相当なものであったと想像するに難くない。周囲の山林樹木はまさに慧日寺の「伽藍要用ようよう」であり、しかも山地の寺院として「仏陀荘厳」を保つためには、寺外からの開発を受け入れるわけにはいかなかったはずである。
かつて山中は、神仏の御座(おわ)す神聖な領域として、俗人がむやみに立ち入ることはなかった。仏罰をも恐れぬ武家の台頭と相まって、中世の大開発の波は聖地にも押し寄せ、周辺農民のみならず、在庁の官人までを結託させ山林開発へと駆り立てた。それを食い止めようとする寺側では、四至結界を築き、あるいは絵図等で明示することによって必死にそれを食い止めようとしたのである。「乱入在所」を直ちに山林開発と結びつけるものではないが、「恵日寺絵図」製作の意図には、その辺の事情が含まれていたに違いない。
(磐梯山慧日寺資料館学芸員)
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白岩賢一郎
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「絹本著色恵日寺絵図」部分 |
【2007年6月6日付】
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