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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  三界を結ぶ三つの橋  ー
 
 「聖地」と「俗地」の架け橋

 「絹本著色恵日寺絵図(けんぽんちゃくしょくえにちじえず)」の中でことさらに目を引くのは、寺院建物にも並び比すほどに大きく描かれた3つの橋である。1つは日橋川に、もう1つは大谷川に、さらにその上方の花川にも高欄の橋が見えている。いずれも慧日寺の寺院空間の構成にとって、重要な役割を担っているようだ。それぞれ見ていこう。

 まず、絵図の下方に描かれている日橋川は、猪苗代湖から流れ出た後、丘陵地帯を穿入(せんにゅう)・浸食し、所によっては数10メートル以上の深い峡谷をなして西へと流れ下る。会津盆地から猪苗代湖北岸域を結ぶ主要街道は、この谷を渡ることが不可欠であり、いずれかで架橋が必要とされる。すなわち、その渡河点(とかてん)が慧日寺の南方であり、絵図に見る「新橋」である。中世には、すでに多くの往来が慧日寺の門前を賑(にぎ)わしたのであろう。

 一方、日橋川の上方には、北部の山体から流れ下った3本の河川が収束した大谷川が西流しており、参道正面には赤い高欄を持つ大きな橋が描かれている。この橋を渡ると、参道の両側には小社を含む数多くの建物が密集して立ち並ぶ様子が描かれ、東西2つの棟門と、そこからめぐる柵列状の遮蔽(しゃへい)施設によって仕切られている。それぞれの内部はさらに細かく区画されており、左方には「正座主(せいざす)」と付記された一角もあることから、この一帯は僧坊や子院、いわゆる僧の住房であったのであろう。数多く描かれている小社の祭事や、諸尊を供養する法会を執り行っていたのもここに住む僧たちであり、法具・祭具などを収める倉などもあったに違いない。まさに「僧地」と呼ぶにふさわしい一帯である。

 さらにこれらの上方には、花川によって「僧地」と区画された伽藍(がらん)域が広がる。正面南から仁王堂・中門・金堂・根本堂などの主要伽藍が南北に立ち並び、さらにその東西にも塔や講堂などの諸堂が描かれている。大谷川から北側に上る参道、その突き当たりに立ち並んだ諸堂宇は、後方に山体を背負った諸仏の御座(おわ)します「仏地」であり、見上げるようで壮観であったに違いない。

 ところで、これだけの大寺院であるからには、寺務や諸施設の管理営繕などに関(かか)わるさまざまな職種の人々の存在も考えなければならない。おそらく「僧地」から大谷川を挟んだ南域に描かれた一帯がその住地なのであろう。「仏地」「僧地」に対し、言うなれば「俗地」であろうか。ともかく、南側から日橋川を渡り、正面の大鳥居をくぐると、往時、そこには慧日寺にかかわる多種多様な階層の人々が、ひしめくように生きていたに違いない。

 こうしてみると、絵図に描かれた河川は単なる地物としてではなく、聖・俗を隔てる重要な目印であったことが分かる。そうした意味で、3つの橋は俗地から聖地へ、それはすなわち仏教的観点からみれば、三界(さんがい)(欲界(よっかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい))を結ぶ架け橋でもあり、慧日寺を考える上で重要な構築物であったと見るべきだ。とすれば、架橋にあたっては慧日寺が大きく関与していたことは明白である。事実、国家や行政機能が小さかった中世においては、こうした公共事業は大寺院に負うところが大きく、峡谷をなす日橋川のような難所においては、慧日寺が有力者や有徳人(うとくにん)から勧進(かんじん)を募り、架橋したことはむしろ必然的であったといえよう。架橋技術にも目を見張るが、絵図の「新橋」がことさらに強調されて描かれている印象を受けるのは、その裏付けかもしれない。後世の『新編会津風土記』にも「橋 花川に架す、長九尺、日橋と大谷橋とこれを併せて恵日寺の三橋と云」(巻之53)とあるように、近世に至っても河川と橋は慧日寺をして依然重要なランドマークとなっていたのである。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 13 】

俗地と僧地をつなぐ大谷川の薬師橋

橋脚に利用された日橋川の巨岩

【2007年7月4日付】
 

 

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