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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  徳一の遺骨はいずこへ(上)  ー
 
 県内外に残る 伝承の地

 慧日寺跡には、中心伽藍(がらん)から北側に少し奥まった場所に開祖徳一の廟所(びょうしょ)がある。ところが、その他にも徳一の墓塔・供養塔や入寂(にゅうじゃく)の地と伝えられる場所が、県内を含めていくつか知られている。

 白沢村(現本宮市)の高松山観音寺は徳一の開基と伝え、境内には五輪塔が残る。また、いわき市遠野町には自然石に刻まれた「徳一大師御入定所」の碑がある。さらに『恵日寺縁起』では筑波山を入寂地としているが、徳一の跡を継いだという金耀(こんよ)が師の首を持ち帰り慧日寺に葬ったという奇談も伝えている。

 このように、高僧の遺骨は必ずしも1カ所に葬られているとは限らず、後世、本人の遺志とは裏腹にゆかりの寺院や場所に分骨されたこともよく耳にする。

 例えば、中国法相宗の始祖、玄奘三蔵の遺骨は、時代の権力に翻弄(ほんろう)され、現在中国国内はもとより、インド・台湾など十数カ所に分骨されており、日本も二カ寺で供養されている。玄奘が亡くなったのは唐代麒徳元(664)年。長安(西安)郊外の白鹿原(はくろげん)に葬られたが、5年後には高宗皇帝の詔(みことのり)によって興教寺に移された。玄奘は生前、自分が死んだら遺骨は山の中の辺ぴな場所に埋め、むやみに近づかないようにとの遺言を残したが、高宗皇帝がこの遺訓を犯したため、その後唐は戦乱に巻き込まれたとの伝承を持つ。

 それを裏付けるかのように、唐の末期には農民蜂起で興教寺塔は破壊され、遺骨は行方知れずとなってしまった。

 時代が下って北宋の端拱元(988)年、陜西の紫閣寺で発見された遺骨は南京に移され再度埋葬供養されるが、19世紀、今度は太平天国の乱に巻き込まれて被災し、再び姿を消すことになる。その後三度(みたび)の発見については、戦時中の日本軍による発見が契機となったことでよく知られている。

 昭和17年、時おりしも日中戦争の真っ只中。南京に侵出した日本軍は、日常の参拝用に稲荷神社建立を計画する。その際の造成で偶然発見された石棺の中から、玉・銅器・磁器などと共に頭蓋骨(ずがいこつ)が見つかり、石棺の蓋(ふた)に書かれた銘文によって玄奘の遺骨と判明したという。

 南京における日本軍の暴虐の限りは触れるまでもなく、大喜して日本へ持ち帰ろうとしたというが、苦難の交渉の末日中で分骨して供養することになった。全日本仏教会では、戦時中でもあったことから埼玉県岩槻市にある慈恩寺に疎開し、その後正式に奉安地として決定した昭和25年には、十三重の石塔が建てられて祀(まつ)られることになった。慈恩寺は、開祖円仁が入唐(にっとう)に際して学んだ長安の大慈恩寺にちなんで付けられた寺名で、玄奘とのゆかりも深い。昭和56年には、慈恩寺から法相宗大本山の奈良薬師寺へも分骨され、平成3年には白鳳伽藍の北側に玄奘三蔵院伽藍が建立されるに至った。

 ここでは、翌平成4年から、玄奘の遺徳を偲(しの)んで玄奘三蔵会大祭が開催されているが、本邦渡来の経緯を顧みた時、複雑な気持ちになるのは筆者のみではなかろう。

 慧日寺跡の最奥に建つ徳一廟は、輝石安山岩製の石層塔で、昭和54年からの解体修理によって、本来は五重の層塔であったことが確認された。戦前、石塔が雪害によって倒れた際に、恵日寺の現住である伊藤泰雄師が石塔の軸孔より土師器の甕(かめ)を発見している。

 口径15センチ弱、器高11センチほどの短胴の甕で、9世紀代の土器と推定されている。器厚が5ミリ程度と薄い割にはほぼ完形に近いことから、土中の出土品とは考えにくく、舎利容器として作られた納入品なのであろう。この土師器の年代をもって石塔の年代を考えれば、徳一の没年とそう隔てない時期の建立とみることも可能だ。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

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慧日寺跡に建つ徳一廟の五重石塔

薬師寺玄奘塔の玄奘像

【2007年7月25日付】
 

 

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