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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  仏前の灯り(上)  ー
 
 精霊の送迎を導く光

 間もなくお盆の時季を迎える。年末年始と並んで、田舎を目指しての大移動が毎年夏の風物詩になって久しい。盆は盂蘭盆(うらぼん)の略。この仏事は、西晋の竺法護(じくほうご)訳「仏説盂蘭盆経」という経典を典拠としており、それによれば、釈尊の高弟目連が餓鬼道に落ちた亡母の苦しみを救済するため、師に救いを求めたことに発するという。釈尊は、自恣(じし)(夏安居(げあんご)の終わりに大衆が修行中に犯した己の罪過を述べ、懺悔(ざんげ)し合って喜悦にひたる日)の7月15日、七世父母のために百味飲食を供え、衆僧に供養すれば餓鬼道から離れることができると説く。目連は盂蘭盆会(うらぼんえ)を修して、亡母は無事餓鬼道を離れたという顛末(てんまつ)である。

 『日本書記』にも斉明天皇3(657)年の条に盂蘭盆会を設けた記述が見え、我が国でそれが行われるようになったのは7世紀半ばまで遡(さかのぼ)り、平安時代の中期に至っては、貴族社会の中ですでに年中行事と化していった。

 鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』には、建久元(1190)年7月15日の条に、「今日盂蘭盆之間、二品参勝長寿院給、被勤修万灯会、是為照平氏滅亡衆等黄泉」とあって、幕府においても仏教行事として盂蘭盆会を行っていたことが知られている。

 これとは別に、餓鬼道に堕(お)ちた生類を救済する施餓鬼供養は、布施行の一つとして我(わ)が国の仏教に取り入れられていたが、戦国時代における死者の急増に伴って、亡魂の祟(たた)りを鎮める追善供養として流行し、以降盆儀礼の中に施餓鬼会(せがきえ)の要素が習合されていくようになる。そのためか、教義上の「衆僧に供物を供える」という仏教行事としての本義が次第に薄れていき、死者の追善回向(ついぜんえこう)、いわゆる祖霊崇拝が中心となっていった。

 そのほか、盂蘭盆に念仏踊が行われるようになったのも、そうした亡霊供養の趣旨にかなっていたためで、ひとえに施餓鬼の要素が強調されていったことを裏付けている。

 ところで、お盆に迎える祖霊には大別すると3種類があるという。1つは本仏(ほんぶつ)。年忌を重ねた祖先の霊で、祖霊として仏壇に迎える。もう1つは新仏(あらぼとけ)。まだ成仏せずにこの世とあの世の中間をさまよっている霊で、基本的には仏壇に招かず、縁側や座敷に別の祭壇を設けて祀(まつ)るのが一般的だ。最後が無縁仏。いわゆる餓鬼で、血縁霊ではないが、本仏や新仏についてくることがある。それだけならまだしも、しばしば悪しきとり憑(つ)きもするので、丁重にもてなす必要がある。関東一円などでは庭に餓鬼棚を設ける習慣もあるそうだ。

 こうした盆行事の中では、迎え火や提灯で精霊を迎え、送り火を焚(た)いて送る。初盆には灯篭を立てて新精霊(あらしょうりょう)を供養する。また、『吾妻鏡』に見る万灯会など、仏事と灯(あか)り・火は密接に関係していた。というのも仏教行事は、お水取りで知られる東大寺二月堂の修二会など、夜になって行われるものも少なくなく、灯りは必要不可欠であったからである。

 まず、野外の照明から見ていこう。近世に提灯が発明されるまで、野外照明といえば松明が最も代表的な灯りであった。平安時代に描かれた絵巻物である「年中行事絵巻」には、松明を灯して照明にしている場面が数多く見られる。松明は読んで字の如く松の灯り。樹脂をたっぷりと含んだ松を肥松(こえまつ)やアブラ松などと呼ぶが、その根を小さく割って束ねたものだ。というのも、肥松はほとんどが根の部分で、しかも、松の大木を伐採して少なくとも10年以上が経過した根株からしか採れないそうだ。脂の少ない辺材が腐って、芯が残る。この根を掘り起こして細かく割り、乾燥してようやく松明材が出来上がる。お水取りの大松明では、その燃えがらを参拝者が競って拾う。松明が穢(けが)れや厄(やく)を払う聖火でもあったからだ。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 18 】

祖霊の鎮魂を願い奉納される「空也念仏踊り」=会津若松市河東町の八葉寺

伽藍周囲には数多く松が描かれている

【2007年8月8日付】
 

 

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