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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  千年の釘(下)  ー
 
 様式から年代測定可能

 西塔・中門・回廊・大講堂と再建復興が進められた薬師寺において、四国松山の鍛冶(かじ)職人、白鷹(しらたか)幸伯(ゆきのり)氏は4半世紀にわたり大小3万本に近い白鳳型和釘(くぎ)を鍛えた。

 こうした釘は、一度打ち込まれればそれこそ1000年後の解体修理まで、構造上抜くことができない。したがって、釘自体の耐久力も1000年が必要となる理屈で、そのためにも高純度の鉄が必要となったが、いかんせん現代のコークス高炉鉄では、イオウ・ケイ素・マンガンなどの不純物を含まない高純度を保つことは不可能とされていた。

 そのような中、近年鉄鋼業界でも量産鉄の高純度化の動きがあって、10年ほど前には、日本鋼管(当時)によって高純度鉄精製の世界特許技術が開発され、その協力のもと白鷹氏は古代鉄よりさらに高純度の鉄材を入手するに至ったという。

 ところで、和釘の耐食性と柔軟性の秘密は、鉄の純度もさることながら、含まれる炭素の量、鍛造(たんぞう)時の温度や打ち加減にあるという。例えば、鉄は温度によって結晶構造が変化する性質を持っているが、この結晶構造が変化する温度を変態点と呼んでいる。

 工房での加熱・冷却に際して、鉄はこの変態点を通過してその性格を変化させるわけであるが、この時点を狙って速やかに槌(つち)打ちを加えることによって、鉄の組織は微細となって朽ちにくい鉄となるのだそうだ。

 しかし、いちいち温度を測っていたのでは到底作業は追いつかない。炎と鉄の色を見て加えるここぞの一撃は、ひとえに鍛冶師の経験と感覚がなせる技に他ならない。

 さて、挿図をご覧いただきたい。構造材用に用いられた各時代の主要な和釘様式である。飛鳥型は極めて軸が太い上に、頭部の構造が未発達でラッパ状に開いている。

 この斜面構造が錆(さび)ても抜けないポイントらしいが、そもそもこのような大ぶりな釘は直接打ち込もうとしても一筋縄ではいかない。まずは鑿(のみ)を使って材に穴を穿(うが)ち、その後、打っては抜いてを繰り返してやっと打ち込めるのだそうだ。恐らく、釘1本打つのに半日はかかったであろうとのこと。錆もさることながら、なるほどびくともしないはずである。

 続く白鳳型は頭部の構造が完成し、最も洗練された形である。よく見ると、3分の1のところで少し細くなり、そこから真っすぐになって、さらに3分の2のあたりにもう一度膨らみがある。ただ真っすぐな釘より、この微妙な膨らみを持った方が木の繊維を押しのける形でぐっさりと入っていくのだという。

 何よりこの時代、建造物の木組みの太さが必然的に大柄な釘を必要としたのであって、後続する天平型と比べても軸部の太さは歴然である。その後、国風文化の確立は、建築様式や資材にも影響を与え、材料の節約や効率性を考え木材は細くなっていき、それに伴って釘も細くなった。平安時代には頭部構造も折り曲げに簡略化され、同時にこのころから巻頭(まきがしら)の頭部が主流を占めるようにもなって、以来この形は、軸部の太さの違いこそあれ明治初期まで続いていくことになる。

 このように、和釘の様式からも建造物のある程度の年代想定が可能となるが、もちろん会津地方での本格的な寺院建築の導入は平安時代に下ってからで、天平型までのような大径の和釘を見ることはできない。慧日寺跡の発掘調査でも和釘が出土しているが、頭部構造が判明しているものはいずれも平安鎌倉型といわれる折り曲げ状のものであって、慧日寺の歴史を裏付けたものだ。

 復元金堂でも、時代に則して巻頭釘を使用したが、軸部に微細な刻みを入れ、打ち込み後に木材への食い付きを狙った「かえし」効果を凝らしたものも含まれている。3007年へ向けて、慧日寺和釘の1年目が始まったばかりだ。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 24 】

金堂の長押を留める和釘


各時代の構造材用和釘(『鉄千年のいのち』より)

復元金堂に用いた巻頭釘

【2007年9月19日付】
 

 

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