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霊峰磐梯山開山に由来
三鈷杵(さんこしょ)は、もともと金剛杵(こんごうしょ)と呼ばれる密教法具の一種であって、把(え)の両端に付く鈷の数によって独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵・九鈷杵に分けられる。さらには鈷の代わりに宝珠(ほうじゅ)や塔(とう)をつけた、宝珠杵・塔杵(とうしょ)などの特殊なものもある。
ではそもそも金剛杵とはいったい何か。その起源は遙(はる)か紀元前のインドまで遡(さかのぼ)る。古代インドの民俗宗教であったバラモン教の聖典で、インド最古の文献ともいわれる『リグ・ヴェーダ』。その中では、バラモン教の主要神インドラが、工巧神トゥバシュリの造ったヴァジラという武器を投じて悪竜ヴリトラを誅戮(ちゅうりく)する。
このヴァジラは雷光、稲妻を象(かたど)ったものであり、これが『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』に「跋折羅(ばじら)は唐に金剛杵と云う」また『大日経疏(だいにちきょうしょ)』に「伐折羅(ばじら)は即ち金剛杵なり」とあるように、後に仏教に取り入れられて金剛杵と訳されたのである。故に三鈷杵は、三股金剛、三股縛日羅(ばじら)とも言われている。
ちなみに、インドラは仏教では帝釈天に姿を変え、梵天などと共に護法の善神となっている。事実、帝釈天や同じく仏教の護法神として知られる執金剛神(しゅこんごうしん)などが握持する金剛杵には、今なお実用の武器の面影を残しているものが多いという。
その後インド大乗仏教から起こった密教の中では、武器というよりもこの利器の力をもって精神的な煩悩を打ち砕き、仏性を顕(あらわ)す意味で用いられるようになって、その過程において実用的要素は次第に薄れ、携帯しやすく装飾的なものへと変容していったのである。
中でも三鈷杵は最も代表的な金剛杵で、一般に金剛杵という時には三鈷杵を指す。3つの鈷は、善無畏(ぜんむい)の漢訳による大日経・蘇悉地経(そしっじきょう)などの説く仏部・蓮華部・金剛部の3種の尊格を表し、俗に仏蓮金と称する。あるいは一切の行為を示す身・口・意の3業である身密・口密・意密の3密を表すほか、阿・娑・縛の3つの種子で表現される。
すなわち、密教においては、衆生の行いが本質的には仏の働きと同一であるとの理念から、手に印を結び(身)、口に真言を唱え(口)、心に本尊の姿を想い描くこと(意)によって、衆生と仏が相結び即身成仏に至るという思想である。
ところで、徳一と同じく、空海をもってしてその名を後世に残した僧のひとりに勝道がいる。下野国に生まれ、8世紀後半から9世紀前半にかけて活躍した彼は、天応2(782)年に日光の補陀洛山(ふだらくさん)(二荒山、現男体山)を開山し、延暦年間には上野国(こうずけのくに)の講師に任ぜられている。
人跡未踏の補陀落山は、古来下野国を代表する信仰の山として崇拝され、眼下には中禅寺湖を望むなど、そのロケーションは猪苗代湖を抱える磐梯山と酷似する。
弘仁5(814)年、勝道の求めに応じ空海によって撰(えら)ばれた「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑並序」は、彼の生涯を編年体で記述した碑文であるが、その内容からは山林修行をする一方で庶民救済に励み広く布教した人物として、徳一に通ずる点も多い。
そのような背景を持つ補陀落山山頂遺跡からは、各年代に及ぶ多くの出土品が発見されており、勝道以降も連綿と続く祭祀の場であったことが明らかになっている。
勝道の開山を「単なる宗教行為ではなく、蝦夷(えみし)反乱に伴う国家的危機感からの動機」と見る研究者もいることから、優れた出土品はある時期国家的な祭祀に用いられていたことをも暗示するほどである。
中でも、平安時代前期のものと推定されている扁平な鉄製三鈷杵は、そこで密教的な修法が実践されたことを意味する。
いずれにせよ、前回紹介した奈良県の弥生山山頂出土品も含めて考えた場合、慧日寺に伝世する三鈷杵の存在は、徳一が会津の霊峰磐梯山の開山と大きく関(かか)わったことを確かに裏付けている。
(磐梯山慧日寺資料館学芸員)
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白岩賢一郎
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忿怒形(ふんぬかた)三鈷杵を持つ二天王像=奈良薬師寺中門
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【2007年10月3日付】
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