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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  みちのく正倉院 撥鏤尺(中)  ー
 
 廃仏毀釈で寺宝が流出

 
 慧日寺の寺宝であった撥鏤尺(ばちるじゃく)が会津を離れるきっかけとなったのは、明治の廃仏毀釈(きしゃく)にあったことは疑いのない事実である。

 近世においても、儒教・国学などの高揚の中で説かれた廃仏論は何度か取りざたされているが、神仏分離政策に伴う明治期のものは徹底を極めた。

 全国的に吹き荒れた仏教排斥運動の最中、公権によって毀傷(きしょう)されるよりは、自らの手で燃やして浄化した方がましとばかりに、仏像を枡形(ますがた)に積み上げて燃やしてしまった上野寛永寺はある種皮肉な例ではあるが、あの興福寺でさえ寺領が没収され、五重塔が25円で売られた時代である。

 近代化が日本人の信心をも凌駕(りょうが)したのか、買い取った京都の業者は、建物に使われている金物だけを目当てに、残りは薪(まき)を積んで燃やしてしまえとする始末。類火が及んで危険だという近隣住民の意見で、すんでの所で焼失を免れたという顛末(てんまつ)は有名な話である。

 廃寺に至らずとも、収入に困った寺院からは締まりなく寺宝が流出していったこともまた事実。常々我わが国における仏教美術品の商売は、こうした趨勢(すうせい)の中で始まったと言われており、現在老舗と呼ばれる古美術商は、この時代多くの仏教美術の名品を手中にした。

 そのような時代背景のもとに、所蔵を引き継いだ磐梯神社を離れたであろう慧日寺尺は、吉水氏の著書によれば、その後当代きっての美術品蒐集(しゅうしゅう)家益田孝(鈍翁(どんのう))の目に留まり、彼の掌中(しょうちゅう)に渡ったという。

 三井物産の初代社長でもある鈍翁は、一方で希代の目利き・コレクターとしても知られ、生涯の蒐集品は一万点とも伝えられている人物である。

 かつて名品と呼ばれる骨董・名品の類は大名家が家蔵の中心であった。明治維新により旧家が斜陽に向かうと、代わって台頭してきたのが財閥と軍需成金で、彼らはこぞって美術品の蒐集を行った。

 その代表的人物の一人が、茶人としても名高い益田鈍翁なのである。このように紹介すると金にものを言わせ、手当たり次第買い集めたという印象を持たれるかもしれないが、荒廃した諸寺の宝物を救い、あるいは海外流出を阻はばんだのも一方では事実であり、現在でも評価は二分している。

 彼の没後、所蔵品は売りに出されたが、大正年間に東京美術倶楽部で行われた売り立て目録の中には「天平尺十二支彫」とあって表裏の写真が掲載されていたという。

 ちなみに落札価格は7180円、現在の価格で概おおむね7000万相当というから、会津を離れて僅わずか40年足らずで、その価値は国宝級までに急騰していたことになる。

 その後再び市井に埋もれるものの、80年代にはとある古美術商の下でその存在が確認されており、今回は個人蔵として出展されたという経緯である。

 ところで、図録の解説ではこの撥鏤尺の年代を唐または奈良時代18世紀としており、片面に鏤刻(るこく)された十二支文に注目して「寅」年に下賜(かし)されたものと見ている。というのも、唐を治める全省庁にわたる法律・法令を集めた6種の法典に『大唐六典(だいとうりくてん)』があるが、その中の中尚署(ちゅうしょうしょ)(皇帝の愛玩する器や后妃の服飾などの製作を担当する部署)の令には「毎年2月2日に、宮中に鏤牙尺(るげじゃく)と木画紫檀尺(もくがしたんじゃく)を進ず」とあって、象牙尺が毎年奉献されたいわば年中行事の品であったことが指摘されているからである。

 尺度の基準は年代によって変動しているが、29.6センチの長さは盛唐時代の基準尺であったこと示す。奈良時代から平安時代初めにかけての寅年を見ると、『大唐六典』の奏上が始まったのがまさに天平10(738)年の寅年であり、以後第十次遣唐使の天平勝宝2(750)年、天平宝字6(762)年、宝亀5(774)年、延暦5(786)年、延暦17(798)年、弘仁元(810)年と続く。いずれかの年、遣唐使や留学僧、帰化人によって招来されたのであろうか。

 (磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 28 】

町内に残る慧日寺尺の描き起こし図(=部分、嘉永2年)=鈴木洋一氏蔵



【2007年10月17日付】
 

 

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