minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  みちのくの薬師  ー
 
 徳一ゆかりで篤い信仰

 慧日寺金堂の本尊であった薬師如来。造立以来、焼失・再興を繰り返しながらも、徳一ゆかりの尊像として長い間篤(あつ)い信仰を集めてきた。

 だが、中興實雅(じつが)が正徳4(1714)年に再興した丈六薬師坐像も、明治5年6月の失火により焼失してしまう。光背の化仏を外すのがやっとであったとのことで、仏身はほとんどが潰滅(かいめつ)した。

 辛くも焼け残った仏頭は、村人たちによって同じく大寺村(当時)内にある能満寺(のうまんじ)に納められることになったが、その際「もっこ」4人がかりでようやく運んだというからその大きさたるやいかばかりであったことか。

 残念ながら、この仏頭も明治12年、同寺虚空蔵堂の火災の折に烏有(うゆう)に帰し、再び造立されることなく現在に至っている。

 それでも、湯川村勝常寺には東北地方現存最古の薬師如来坐像が伝来する。像高は140センチほどだが、その作風から徳一の時代、9世紀初頭まで遡(さかのぼ)る造像とみられ、かつて双璧をなしたであろう慧日寺創建薬師の面影を僅(わず)かながらも辿(たど)ることができる。

 ところで、この地に薬師如来が造立された背景には何があったのであろう。そもそも、薬師如来の役割とはどのようなものであったのか。その一端は、奈良時代、特に重用されていた『薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)本願功徳経(ほんがんくどくきょう)』という経典に見ることができる。

 それによれば、当初最も期待されていたことは、戒の護持をかなえることであった。「戒」すなわち心身の清浄性を保つことが、種々の祈願を成就するための最も基本的な条件であった。そこでは、たとえ戒を破ったとしてもその名を聞くことで破戒(はかい)の罪が滅し、再び清浄を得ることができるという功徳もあったのである。

 すでに『日本書紀』持統3(689)年7月壬子朔の条には「陸奥蝦夷(えみし)の沙門である自得が請い願った金銅の薬師仏像・観世音菩薩像各々一躯に、鍾(しょう)、沙羅(さら)、宝帳(ほうちょう)、香爐(こうろ)、幡(ばん)等を付けて与える」と見え、7世紀末、出家した蝦夷の存在とともに、彼らが薬師・観音といった具体的な尊像を必要としたことを伝えている。そこからは、仏教というある種中央の制度に組み込まれた蝦夷にとって「滅罪」という行為がいかに重要であったかが読み取れる。

 狩猟を生業ともしていた蝦夷にとって、殺生は不可避であったが、一方で、出家した沙門として戒を護持するためには、その殺生に対する滅罪が希求されたのである。そのために薬師・観音といった尊像の存在が必要であったというのだ。

 一見、そんなちっぽけなことと思われるかもしれないが、現在のような多様な宗教観とは異なり、いわば国家宗教たる仏教思想の中では、罪への意識と滅罪は日常の生活のありとあらゆるものに因果を持ち、大局的には国家の平安にもつながるものと考えられていたのだ。各国の国分寺に薬師如来が安置されたのも、そうした意識に基づくものであったのである。

 一方で、仏像はそれぞれふさわしい場所に居場所を持つといわれている。9世紀になると、薬師悔過(けか)は疫病(えきびょう)を封じる功徳をもたらすものとして様相を変え修じられていくようにもなる。当時、疫病は道を通って外から侵入すると考えられており、必然的に薬師悔過はそうした場所で勤修されたため、薬師尊像も街道の拠点に沿って配置されている事例が多い。

 会津に残る古い薬師如来の立地を見ると、盆地へ至る主要街道の入り口にあることが多く、まさに盆地内を清浄に保つものであったからにほかならない。その根底には、取りも直さず、徳一による会津を仏国土と化すべく思想があったからに違いない。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 34 】

東北地方現存最古の薬師如来坐像=勝常寺蔵(湯川村教育委員会提供)


丈六薬師の残映を伝える光背化仏=恵日寺蔵


【2007年11月28日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN