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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  漆黒の須弥壇  ー
 
 伝統の漆技術使い復元

 古(いにしえ)より、漆(うるし)は人々の生活の中に深くかかわってきた。漆は元来、中央アジアを原産とし、800から1500メートルの山間部に野生していたといわれるが、わが国では縄文時代にすでにその利用が認められていることからも、極めて古い時代に中国から朝鮮半島を経由して渡来したと考えられている。

 周知のように、漆はいったん固まると、その被膜は強靭(きょうじん)な接着剤ともなり、木や竹はいうに及ばず、皮・紙・金属などにも塗布され、防水・装飾の効果も兼ねた。また、漆液には抗菌効果もあって、腐食の原因となるカビ・雑菌等の殺菌にも一役買っている。

 会津地方でも、三島町の荒屋敷遺跡、会津大塚山古墳などを代表に、多くの遺跡からさまざまな漆製品の出土が確認されている。平安時代になると社寺建築の技法とともに、漆技術もより洗練され、仏像・仏具・什物などに多く用いられるようになっていく。

 現在、会津地方における平安時代漆製品の遺品は、ほとんどが寺社に遺(のこ)されたものであるという現実は、まさにそのことを裏付けているといえよう。
 さて、復元金堂には、本尊丈六薬師如来坐像、脇侍(わきじ)日光・月光菩薩像を想定して、幅7.5メートルにも及ぶ須弥壇(しゅみだん)を設置する。表面は黒漆塗り仕上げとなるが、寺院建築を数多く手掛けてきた棟梁(とうりょう)も、これだけ大きな須弥壇を手掛けるのは、ほとんど経験がないという。

 建物の建築と並行して、現在塗りが行われているが、せっかくの古代仏堂の復元ということで、一部地元の漆を使用し、会津の漆職人さんに塗りをお願いしている。

 その工程は、建物の造作以上にこれまた手間と時間を有するもので、具体的には、木固め、刻苧(こくそ)、布着せ、地付け、切粉付け、錆(さび)付け、下塗り、中塗り、上塗り、胴擦(どうず)り、摺漆1回目、同2回目、同3回目といった具合である。

 一般の方々にとっては、それぞれに恐らく初めて耳にする言葉であろうが、ごく大雑把(おおざっぱ)にいえば、下地と上塗りに分かれ、各々何層にもわたる”塗り”と”磨き”を繰り返す工程である。いずれもミリ単位以下の作業であるが、それぞれに乾燥養生期間を設けるため、膨大な時間を要することになる訳だ。

 上塗りは蝋色(ろいろ)塗りといって、無油漆(むゆうるし)で上塗りを行い、乾燥固化した後に磨き仕上げを行うものだが、その後さらに水に砥粉(とのこ)または油砥粉をつけて磨く「胴擦り」、生漆(きうるし)を綿につけて擦りこみ揉紙で拭った後研磨する「摺漆(すりうるし)」といった作業を行って、まさに鏡面のように仕上げていくのだそうだ。

 ところで、漆木からはいわゆる漆塗料の原料である樹液のほかに、漆蝋(うるしろう)の原料にもなった実が採集された。大寺院であった慧日寺。当然の如(ごと)く膨大な灯明燃料を必要としたはずであり、須弥壇にも燈(とも)されたであろう。実際の発掘調査でも灯明皿が数多く出土しているが、そうした灯明皿に用いた植物油燃料のほかにも、固形燃料である蝋燭(ろうそく)も多量に使用されたことは当然のごとく考えられるところだ。

 近世、会津藩などでは財政強化を図って漆木の栽植を奨励しており、漆蝋の販売には規制が設けられていた。享保年間には藩による専売制度が敷かれるようになり、寛保年間には藩内の栽培量は180万本を超すに至ったという。

 以来、漆器と蝋燭はその伝統技法も含めて、会津の2大産品として現在に受け継がれている。掲載した写真は、文化15(1818)年に記録された「本寺村漆木絵図」で、慧日寺を中心とする周辺一帯にある漆木を子細に記録したものである。

 寺院周辺に僅(わず)かに寺林が廻(めぐ)っているのは確認されるが、そこには大寺院の面影というより、むしろ藩政下の奨励産業にのみ込まれた近世寺院としての姿が如実に描かれているといえよう。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 35 】

本寺村漆木絵図=福島県立博物館蔵


会津若松市内の漆木


【2007年12月5日付】
 

 

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