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住民らの熱意が後押し
遺跡整備の建物復元においては、常々オーセンティシティー(確実性・信憑性)が問われる。しかし、現代に生きる我々(われわれ)にとって、今復元にあたっている建物が寸分たがわず本来の姿であったかどうかは、実は知る術すべもない。
遺跡における建物の実物大復元は、訪れた人々により具体的なイメージを与え、遺跡理解に大いに寄与する半面、そこで目にする建物に対し固定観念を植え付けてしまう危険性も孕(はら)んでいる。
建物の復元整備にそうしたジレンマが内在していることは、見る側の人々にとっても、常に肝に銘じておかなければならないと思う。
特に中世以前の復元建物の基礎資料には、質・量ともに圧倒的な限界があって、そこから造形される構造は実は研究者によって十人十色であるのが現状だ。
その一例が、近年話題になった出雲大社の本殿建築である。平成12年に境内から出土した、直径110〜135センチにも及ぶ鎌倉期の巨大な柱材によって、社伝であった16丈(約48メートル)の高層神殿が現実性を帯びた。
今年3月にオープンした島根県立古代出雲歴史博物館には、5人の建築史学者それぞれが考えた5つの復元模型が展示されているが、高さ一つをとっても、50メートルに近いものから30メートル以下のものまで多岐にわたる。
しかしながら、来館者にさまざまな復元の可能性を提示した意味では画期的な展示として評価されよう。慧日寺金堂の場合も、今回の復元は一つの復元案を具現化したものに過ぎない。
不確定要素が大きい場合、あえて復元はすべきではない、という考え方も一方では正論だ。しかし、復元に至る過程を提示・体感することによって、その遺跡に対する人々の関心を高揚させ、見る側にも考えてもらう機会を与える、という方法も遺跡の積極的な活用方法と言える。
実際この連載中、面識のない方々からお電話やお手紙などを頂戴(ちょうだい)し、改めてその関心の高さに驚かされた。今回の復元にあたっての試行錯誤は、古代建築の研究をより深化させたし、また伝統技術の復元・継承にも少なからず貢献したという自負もある。何より、復元に対する地元住民の熱意が大きな後押しとなったことはかえ難い事実でもあった。
歴史は過去の事実のすべてではなく、その羅列でもない。現代に生きる我々が、さまざまな遺跡・遺物や史料をもとにして、客観的な立場から批判を加え叙述するものである。
したがって、歴史は研究方法の進化や新しい史料の発見によって常に更新され、書き換えられるべきものである。
しかも、歴史学者も所詮(しょせん)は人間。自己の歴史哲学に沿って叙述する以上、客観的な判断は無理であり、定説でさえ常に見直しが必要だ。今後、社寺建築史の研究が深化し、歴史の具象化としての復元建物に新たな視点が求められることは恐らく必至に違いない。その時には、我々は柔軟に対応する姿勢が必要だろう。
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間もなく中門の建物復元にも着手する。その後には、金堂・中門間に広がる石敷き広場も復元整備する予定だ。これによって、古代慧日寺中枢部の儀礼空間が再現されることになる。
しかし、平成の世において、そこはあくまで初めて目にする異界の空間だ。これから長い年月を経て、史的景観の中に融合してこそ、復元建物も文化財としての価値を有し、新たな会津仏教文化の一端を担っていくに違いない。行政ばかりではなく、地域全体で守り伝えてこそ、本当の意味での文化である。
そう遠くない将来、次代の人々によって新たな会津史が叙述され、その中にきっとこの金堂も綴(つづ)られていくに違いない。復元に携わった一人として、長い目で見守っていただくことを切に願ってやまないところである。=終わり
(磐梯山慧日寺資料館学芸員)
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白岩賢一郎
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来春の竣工に向け工事が進む現地
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復元金堂内部の板床
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【2007年12月12日付】
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