【第2部・亜欧堂田善<中>】江戸で刺激、緻密な画境

 

 須賀川出身の洋風画家、亜欧堂田善(あおうどう・でんぜん)は、江戸時代後期にあって当時最高水準の世界地図を手がけた技術者で、芸術家でもあった。銅版画修業に励んだ江戸は田善を刺激したのだろう。技術の習得で身に付けた遠近法や陰影法などの西洋絵画の技法を駆使して江戸の風景、風俗を作品化。独自の画境を切り開いた。

 田善は江戸の名所図を数多く残したが、中でも最大の銅版画が「大日本金龍山之図」だ。にぎわう浅草、浅草寺(せんそうじ)の境内。遠近感と明暗の表現は自然で巧みだ。さらにダイナミックな画面を演出する手際の良さ。そして何より、異様なまでに緻密な描写である。建造物の実在感はさることながら、人1人、草木の1本までも手を抜くまいという気概すら感じる。

 驚くべき解像度

 「『誰も見ないでしょ?』というところまで妥協なく描いている」と、須賀川市立博物館学芸員の宮沢里奈さん(32)。「作品を引き伸ばしても画質が落ちない。映えますよ」と言う。驚くべき解像度である。近世日本美術に詳しい県立博物館専門員の川延安直さん(60)は、田善の銅版画について「半ばあきれるくらいのねちっこさがある。独立独歩の存在」と評価、「鑑賞者も拡大鏡を使って楽しんだのかもしれない」とみる。

 絵師である田善はもちろん肉筆画も残している。江戸の風俗を活写した「両国図」はその代表格だ。遠近法によって構築された画面、陰影の表現、青を基調とした鮮やかな色合いが印象的で、描写は相変わらず細かい。遠景の人物まで判別できるほどである。しかし、だ。「『ん?』となりますね」と宮沢さん。「気持ち悪いよね」と川延さん。「両国図」の何とも言えない落ち着きの悪さは、気のせいではないらしい。

 東西の技法が「共存」

 よく言われるのは、背景の人や物をぼかして空間的奥行きを表現する、空気遠近法の欠如だ。田善は肉筆画でも銅版画の作法そのままに、点景人物までも丁寧に描き込んでいるのである。川延さんは「現代人が既に西洋画も日本画も知っていること」を鑑賞の前提に、「西洋画にある『空間を掌握する』という思想がここにはない」と指摘。「一見合理的な空間がつくられているようで人物は日本画」といったちぐはぐな画面を「技法が融合というより共存している」と読み解く。世界をどう把握し、表現するか―。「両国図」はこの問いを巡る歴史と地続きにある。

 モデルの人柄に迫る

 現存する田善の最も若い頃の作品は「源頼義水請之図」だ。15歳で絵師として依頼を受け描いた絵馬で、地元の白山寺(現須賀川市上小山田)に奉納された。田善に絵を教えたのは、10歳上の兄丈吉とみられている。丈吉は崑山(こんざん)と号した狩野派の絵師で、もちろん家業はそっちのけだったようだ。

 少年期から既にひょろっとした人物を描いているが、妙にプロポーションの良い人物造形や点で描いた目は、師に当たる伊勢の画僧月僊(げっせん)の影響とされる。現存する田善唯一の肖像画「遠藤猪野右衛門像」にも見られる特徴だ。面長の顔が際立つようだが、細やかな描きぶりからは、モデルの理想化よりも人柄に迫ろうとする意思が見て取れる。

 画風に劣らず、本人も幼い頃から変わり者だったらしい。瓦の生産が盛んだった須賀川。田善少年は家業も手伝わず、毎日のように弁当をぶら下げ、瓦を焼く窯からもくもくと上がる煙を一日中眺めていた。周囲は気味悪がったという。銅版画「今戸瓦焼図」など生命力すら感じる煙の描写を見ると、納得の逸話である。

 煙を凝視していた少年は、後に白河藩主松平定信に見いだされ、歴史に名を刻んだ。元須賀川市立博物館長の安藤清美さん(68)は大成の要因を「"変人"とされるほどの探究心と、それを存分に発揮できた定信周辺の恵まれた環境」とみる。「新訂万国全図」で定信の期待に応え、田善が須賀川に戻ったのは60代半ば。江戸に上ってから、10年余りが過ぎていた。(高野裕樹)