【第2部・亜欧堂田善<下>】余生は須賀川で町絵師

 
田善が銅版画に描いた乙字ケ滝。おおよその姿は208年を経ても変わらない=9月30日、須賀川市・玉川村

 動的な流水の表現は全て線から成る。亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)が1814(文化11)年に制作した銅版画「陸奥国石川郡大隈瀧芭蕉翁碑之図」である。この作品は須賀川の俳人石井雨考(うこう)が編んだ句集「青かげ」の挿絵で、須賀川市と玉川村の境にある乙字ケ滝の実景をトレードマークの緻密な描写で捉えている。

 帰郷し生活に苦労

 田善が生まれ育った須賀川は、奥州街道有数の宿場町として栄えた。俳諧をはじめとする町人文化が盛んで、俳聖松尾芭蕉が1689(元禄2)年に「おくのほそ道」の旅で1週間滞在したことでも知られる。江戸から帰郷した田善は、雨考ら須賀川俳壇の面々と交わりながら"須賀川の町絵師"として余生を送った。地名を連ねた「陸奥国石川郡大隈瀧芭蕉翁碑之図」は、芭蕉が訪れた乙字ケ滝を"聖地"と仰ぐ、雨考ら俳人たちの誇りを代弁している。画面左端に小さく見えるのは、雨考が建てた芭蕉の句碑だ。

 さらに、田善と須賀川俳壇との関わりを示す銅版画に「河豚(ふぐ)図」がある。雨考らが冬の風情を詠んだ句に、冬の季語「河豚」の絵を取り合わせた粋な作品だ。濃淡の表現は田善のなせる技で、あたかも水墨で描いたかのような柔和なタッチを実現している。芸術に興じる須賀川の町人たちの姿が目に浮かぶようで、楽しい。

 一方、田善自身の生活は楽ではなかったようだ。後ろ盾だった白河藩主松平定信は1812(文化9)年に家督を定永に譲り、引退。定永は16年に桑名藩へ移封され、田善はお抱え絵師から一介の町絵師に戻ったとされている。一人息子静庵は長崎で医術を学んだものの、「よほどの奇人であったらしく、いがぐり頭にへこ帯姿で診察した」(「須賀川市史」)と伝わる。父田善のように"変人"ぶりが昇華されれば良かったが、酒癖が悪くたびたび問題を起こしたという。しかも、静庵の妻は親友雨考の娘である。親の苦労がしのばれる。

 銅版画制作のための材料も自由に手に入らなくなり、田善は江戸から持ち帰った銅版や道具を弟子で須賀川の呉服商、八木屋半助に譲ってしまった。ところが、半助が田善の洋風銅版画をたばこ入れや帽子、帯といった小間物の生地に刷って売ったところ、目新しさが奏功したのか、土産物としてヒット。須賀川の名物となった。田善と同時代に生きた、須賀川が全国に誇る女流俳人、市原多代女(たよじょ)も「ヴァイオリン図」を口布にした籠を愛用したとされる。

 「郷里の偉人」後世に

 生活に奔走し、子に頭を悩ませる―。成し遂げた画業に比べ凡庸とも思われる晩年を過ごした田善は、22(文政5)年に75歳で没し現須賀川市中心部の長禄寺に葬られた。寺にはオランダ語で「亜欧堂田善の碑(いしぶみ)」と書かれた顕彰碑が立つ。1921(大正10)年、田善作品の収集などに努めた須賀川雅友会が建立した。田善は忘れられなかった。

 郷里の偉人を後世に伝える取り組みは続く。須賀川商工会議所青年部は、毎年市内の小中学生を対象とした「田善顕彰版画展」を開催。最高賞の田善賞作品は市立博物館に寄託される。「生まれも育ちも須賀川」という同館学芸員の宮沢里奈さん(32)は「私も出品した記憶があるけど、全然引っかからなかった」と笑い、「将来、第二の田善が現れたらうれしいです」と期待する。

 2022(令和4)年の乙字ケ滝へ。幅約100メートル、落差約6メートルのこの滝は「小ナイアガラ」と称される。その姿は208年前の銅版画とさして変わらない。実景を目の当たりにし、改めて田善の変態的な画力に驚かされる。江戸時代の須賀川に生まれた変人は、定信に導かれ開花した。どこかに埋もれている令和の異才は、どんな名伯楽と出会い、どんな花を咲かせるのだろう。(高野裕樹)