【第3部・斎藤清<下>】「会津の冬」向き合い続け

 

 母の面影求め

 手をつないだ親子が雪深い町並みを歩いている。版画家斎藤清(1907~97年、会津坂下町生まれ)の木版画「会津の冬 坂下」(40年ごろ)である。後の代表作、ライフワークとなる「会津の冬」最初期の作品だ。

 「手をつないでゆく母子の姿は、かつて四歳のとき、この土地を後にした母と自分の姿をダブらせて作った作品であることを否定できないものがある」(「私の半生 斎藤清」)。斎藤は4歳で北海道に渡り、12歳で母ルイと死別した。斎藤にとって古里はまず、母のいた場所としてあったのかもしれない。

 37年、当時東京に住んでいた斎藤は、初めて生まれ故郷を訪ねた。母の妹、山口イノに会うためだ。望郷の念に駆られ、母の面影を慕っての旅だった。そんな斎藤をイノは温かく迎えたという。以後、斎藤はたびたび会津に足を運ぶようになる。晩年はイノの娘でいとこに当たる、柳津町の渡部ヨシノ一家の元で暮らした。ヨシノの次女久子さん(64)=本宮市=によると、斎藤は、イノの優しさに触れることがなかったら「会津に来ることも『会津の冬』を描くこともなかった」と述懐していたという。

 「雪」格好の画題

 「坂下」以降、斎藤は断続的に「会津の冬」を制作。70年から始まる連作は、没するまでの27年間で115作を数える。「シンプルさ」を志向する斎藤にとって、雪で余分な要素が覆われる会津の風景はうってつけの画題だったのだろう。シリーズ1作目となる木版画「会津の冬(1)窪」(70年)は見事なまでにシンプルだ。斎藤清美術館(柳津町)の学芸員、伊藤たまきさんは「たくまざる単純化への決意表明」とみる。

 斎藤は87年に柳津町に移住した。生活者として「会津の冬」に向き合い、雪の厳しさを知った。「やっと実感が伴った『会津の冬』を描けるようになり、『リアリスト斎藤清』としてはうれしかったのでは」と伊藤さん。中でも、会津若松市のうなぎ屋を描いた木版画「会津の冬(71)若松」(87年)は「一つの到達点」と評する。形こそシンプルだが、しっとりとした雪の質感に加え、のれんや軒、つららの陰影が「詩情を物語っている」と言う。

 郷愁との葛藤

 北海道、東京、鎌倉を転々とし、自らを「エトランゼ(異邦人)」と称した斎藤は、古里を求め、描いた。だが、それは郷愁ではなく、芸術上の闘いであるとかたくなに強調した。伊藤さんは「郷愁という口当たりの良い言葉に溺れてはいられない、温かく迎えてくれる古里に甘えるわけにもいかない。『闘い』は自らを律する言葉だったのでは」と思いを巡らす。会津は自身がたどり着いたルーツであると同時に、挑むべき対象だった。郷愁の否定は、葛藤の裏返しのようにも見える。

 幼い頃から斎藤を見つめてきた久子さん。仕上がった作品を最初に見せてもらうこともしばしばだったという。「星がきれい」。木版画「会津の冬(51)山口」(82年)を見てこう感嘆した久子さんに、「星に見えるか?」と斎藤。「雪だったの?」「好きに見ていい」。何げないやりとりが記憶に残っている。「温かさと優しさ、悲しみの同居した人が生み出した作品に、魅力がないはずがない」。久子さんは目を細める。

 「会津の冬」は手をつなぐ親子の姿から始まった。斎藤が描いた会津は、母に手を引かれて歩いた、そして久子さんら家族がいる場所だった。作品は雪国の冷たく澄んだ空気を巧みに表現しながら、どこか温かい。きっとそれは、斎藤が紛れもない古里、会津に帰ってきたからなのだろう。(一部敬称略、高野裕樹)