【第1部・雪村周継<2>】名将・蘆名盛氏が支援

 
岩崎城跡からの眺望。会津盆地が一望できる=会津美里町

 福島との縁

 会津盆地南端に位置する向羽黒山(むかいはぐろやま)の頂上に、岩崎城跡がある。雪村周継(せっそんしゅうけい)が障壁画の制作を担ったとみられている大規模な城跡で、1568年に完成した。施工主は会津の戦国大名、蘆名盛氏(あしなもりうじ)(1521~80年)。雪村の支援者の一人だ。蘆名氏全盛時代を築いた名将で、芸術にも深い関心を寄せた人物という。現在の鶴ケ城(会津若松市)は盛氏の居城、黒川城跡に当たる。

 46年5月、雪村は盛氏に絵画鑑賞の手引きとなる「画軸巻舒法(がじくけんじょほう)」を授けたとされる。雪村と福島の縁が生まれた歴史的瞬間である。

 以前の消息が分からないため回りくどい言い方になるが、この時までに雪村は故郷の常陸を出発したことになる。年齢にして50代半ば。画僧としてそれなりに名も通っていたのだろう。

 関東を遊歴

 会津の後、雪村は関東文化の中心地、小田原・鎌倉を遊歴。支援者の北条氏や禅宗寺院に伝来した中国絵画に学ぶなど画業を深め、自身の表現を確立していく。

 その収穫の一つが「琴高(きんこう)・群仙図(ぐんせんず)」だ。巨大な鯉(こい)にまたがり、ひげを手綱に水中から飛び出す琴高仙人。衣服はなびき、動的である。デフォルメされた波に対し、鯉の描き方は写実的で繊細だ。琴高を脇で見上げる弟子たちの表情は三者三様で面白い。それにしても、右幅の子どもがこちらを見つめているようで落ち着かない...。

 小田原・鎌倉を離れた雪村は再び会津へ赴く。京の都でメジャーデビューを飾ってもよさそうなものだが、雪村が向かったのは奥州だった。それほど盛氏が魅力的だったのだろうか。会津若松市にある盛氏の菩提寺(ぼだいじ)、宗英寺所蔵の「蘆名盛氏座像」がその姿を今に伝える。しっかりとした目鼻立ちの威光を放つ木像だ。

 住職の時崎隆宏さん(81)によると、戊辰戦争で寺は焼けたが、像は当時の住職が持って避難したため無事だったという。「後世に残さないと、という思いがあったんだろう。大切に受け継いでいきたい」と時崎さん。像は盛氏の命日6月17日に開帳され、集った人たちが毎年遺徳をしのぶ。寺の南側の廟所(びょうしょ)には、盛氏と17代盛興(もりおき)、18代盛隆(もりたか)の墓がある。周囲は閑静な住宅街で、隔世の感がある。

 大名間の緩衝

 一方、関東遊歴後の雪村は三春の田村氏ともつながり、晩年は会津と三春を行き来していたとみられる。時は戦国の世。蘆名、田村の両氏ももちろんライバルだ。会津若松市の県立博物館専門員、川延安直さん(60)は「文化は戦国大名間の緩衝地帯で、対話を図り、互いの均衡を保つためのツールだった」とした上で、雪村の自由な活動を「傍流だったからこそ可能なフットワーク。こうした立場の画人は重宝されたのでは」とみる。

 雪村は禅僧であるから、支援者となる大名だけでなく、ゆかりの寺社との関係も重要だ。市内には大先輩に当たる同郷・常陸の禅僧、復庵宗己(ふくあんそうき)(1280~1358年)が開いた実相寺がある。居心地がいいわけだ。さぞかし筆も進んだことだろう。しかし、会津には作品がほとんど残っていない。地元としては残念だが、「会津にないだけで、雪村の作品は国内外に広がっている」と川延さん。理由をあれこれ考えながら再び琴高仙人を見やる。作品が見せる作者さながらの自由な振る舞いに、思わず苦笑した。(高野裕樹)

第1部・雪村周継<2>