【第1部・雪村周継<3>】大胆奇想、繊細に描く

 

 会津若松市の金剛寺は雪村周継(せっそんしゅうけい)の支援者、蘆名氏の祈願寺だ。雪村の「山水図屏風(びょうぶ)」が伝わる。雪村の作品は国内外に散らばり、活躍とは裏腹に会津にはほとんど残っていない。それだけに貴重な逸品である。元は六曲一双とされるが、現存するのは左隻だけで傷みが激しい。

 住職の山口修誉さん(71)によると、屏風は戊辰戦争の疎開中に行方が分からなくなった。ところが、戦後間もなく地元の医師が往診中に湯川村の農家で発見。なんと屏風は、豆の脱穀作業中の風よけに使われていたという。屏風は医師を通じ「無事に」とは言えないが、寺に帰ってきた。

 作品の熱量高く

 「どこかに飛んでいっちゃいそうでしょ?」。県立博物館専門員、川延安直さん(60)は、雪村の奥州時代の名作「呂洞賓(りょどうひん)図」を指して笑う。呂洞賓は中国・唐代の仙人で、民間伝承による「八仙」の一人として人気がある。龍の頭に乗り、荒波から躍り出る呂洞賓。相対する画面右上の龍に負けじと、目をむき口を開けている。

 衣服が左上になびいているのに、ひげは右上に張っている...なんて細かいことはどうでもいい。気力のなせる技だ。だが、呂洞賓が乗る龍とやっぱり目が合い、落ち着かない...。「雪村の作品は一所(ひとところ)にとどまっているような器ではないのかも」と川延さん。ほとばしるエネルギーに納得する。

 実際のところ会津に雪村の作品が残らなかった要因は、戦国時代や幕末の混乱のほか、会津も例に漏れず組み込まれた江戸期の幕藩体制にあるという。当時の画壇の主流、規範は幕府お抱えの狩野派だ。異端児の雪村が表立って受け入れられるはずもなく、そのDNAは在野に近いところで継承されていた。

 白河ゆかりの江戸後期の画家、谷文晁(ぶんちょう)は著書「文晁画談」で、雪村が1542(天文11)年に著したとされる画論「説門弟資云(もんていのしすにといていう)」を紹介した。ここで雪村は1世代前の雪舟の影響を認めつつ、独自の画風を築いたことを誇らしげに述べている。一方、雪村の自筆本は見つかっておらず、文晁らによる偽書との見方が強い。裏を返せば、当時の画家たちに「雪村ならこう言うだろう」と思わせるイメージが伝わっていた証拠とも読める。

 江戸時代の京都では、琳派の代表格尾形光琳が「呂洞賓図」を模写するなど雪村に私淑。同じく京都の伊藤若冲や曽我蕭白(しょうはく)、長沢蘆雪(ろせつ)らいわゆる「奇想の画家」の元祖を雪村とする現代の評価もある。京都は雪村が生涯訪れることのなかったとされる地だ。時間も空間も超え、ひょっこり顔をのぞかせてくるところが雪村らしい。

 漱石と子規、酷評

 明治の美術界をリードした岡倉天心は、雪舟と並び雪村を高く評価した。雪村については「あたかも生活の一切が遊びにすぎぬかのようで、雄勁(ゆうけい)な自然の溢(あふ)れて止(や)まない力のすべてを、その強健な精神によって味わい、楽しむのであった」(佐伯彰一訳「東洋の理想」)と評しており、作品から受ける印象を端的に言い尽くしているようだ。

 同時代でも、夏目漱石は小説「草枕」などでこれ見よがしに若冲や蘆雪の名を挙げているのに「雪村の李白などは厭(いや)なものに候」(1915年12月14日、寺田寅彦宛て書簡)と、奇想の元祖は退けている。漱石と交友のあった正岡子規に至っては「雪村は筆力余ありて神韻足らず、従つてその画を観(み)て微妙の感を起す事なし。われ甚だ雪村の画を愛せず」(「松蘿玉液(しょうらぎょくえき)」)と痛烈である。

 確かに、雪村は道教や仏教を背景とした道釈人物を好んで取り上げ、異様な画面を展開した。その一方で、雪村は「蔬果(そか)図」や「竹に鳩(はと)図」といった、身近な動植物を題材にした作品も生涯にわたり描き続けた。雪村の大胆な表現には、対象と向き合うことで培われた繊細さが息づいている。奥州で絶頂期を迎えたといわれる雪村の画業。最期の地、三春でもその筆力は衰えることを知らなかった。(高野裕樹)