【第1部・雪村周継<4>】同郷の僧を慕い三春へ

 
雪村の屋敷跡「雪村庵」。竹林の風にそよぐ音が心地よい=郡山市西田町

 最期の地

 三春は雪村周継(せっそんしゅうけい)が晩年を過ごし、没した地とされる。郡山市西田町の「雪村庵」は、江戸時代に再建された雪村の屋敷跡だ。庵(いおり)には毎年春と夏に地元住民が集い、雪村や先祖の供養と無病息災を願う念仏講を行う。雪村庵保存会長の橋本孝義さん(75)は「直会(なおらい)で女性たちが腕によりをかけた料理を食べる。小さい頃はこれが楽しみでね」と笑う。

 「年がら年中」庵を訪れるという橋本さんは、維持管理や周辺の草刈りをはじめ、環境整備に余念がない。庵は桜の名所としても知られる。風にそよぐ竹林の葉音が心地よい。安らぎを求めて訪れる人もおり、橋本さんたちにとっても落ち着く場所だという。「とにかく庵を守るのが仕事。雪村も桜も地元の宝だ」と力を込める。

 ユーモアと温かさ

 雪村は、70歳の時には三春に住んでいたとみられている。奇怪な雰囲気に満ちた「蝦蟇鉄拐(がまてっかい)図」はこの頃の作品とされ、元はついたての表裏をなしていた。右図の鉄拐、左図に描かれた蝦蟇の両仙人自体、既に常軌を逸している。

 鉄拐仙人は、体を残し魂だけで出かけていたところ、弟子が体を焼いてしまったため、やむを得ず近くにあった醜い男の死骸に入り再生。一方の蝦蟇仙人は3本足のガマを操ったと伝わる。ふうっと分身の魂を吹き出す鉄拐仙人。怪しげな笑みを浮かべる蝦蟇仙人は、気を吐くガマと一緒に踊るかのようにポーズを合わせている。躍動感を生み出す筆力は衰え知らず。遊び心はもちろん健在だ。

 三春町歴史民俗資料館は雪村の小品「奔馬図」を所蔵。題名通り力強く疾駆する馬が描かれ、なびくたてがみと尻尾は淡墨のはけ描きで表現されている。副館長の藤井典子さん(56)は「雪村の小品はユーモラス。生き物への温かいまなざしを感じる」と語る。「奔馬図」は三春交流館まほらホール(同町)の緞帳(どんちょう)のモチーフになっており、町民にも親しまれているという。

 出自の「謎」

 雪村の出自を巡っては、常陸の武将・佐竹氏出身が定説だ。雪村の三春での活動の背景には、三春城を拠点とした田村氏の支援があった。それにちなんでか、過去には雪村の俗名を「田村平蔵」とする三春誕生説も浮上。藤井さんは「田村家の系図に雪村らしき人物はいない」とし「田村家から出た人が故郷に戻り、最期を迎えるのは自然な帰結。地元としてそうあってほしいという願望もあった」とみる。むしろ「田村平蔵とは誰だったのか」という謎が残った。

 なぜ雪村は最期の地に三春を選んだのか。支援者以外の要因に、再び復庵宗己(ふくあんそうき)(連載第2回参照)が現れる。復庵は雪村の先輩に当たる、同郷・常陸出身の禅僧だ。会津に復庵が開いた寺があったように、三春町の福聚(ふくじゅう)寺は復庵の開山である。どうも雪村は復庵の事績をたどっているらしい。

 本人にしか知り得ないことを思いつつ、庵を囲む閑寂な世界に身を委ねていると、雪村がこの場所をついのすみかにしたのも納得できるような気がする。あるじ亡き後の庵は荒廃。江戸期に常陸から三春に移った高僧が再興し、自ら住んだという。慕い慕われる雪村。謎の画僧の輪郭が、うっすらと見えてきた。(高野裕樹)

第1部・雪村周継