【第1部・雪村周継<5>】幸せな人生の帰結

 
雪村のものと伝わる墓(中央)。右の石は一元の墓といわれる=郡山市西田町

 雪村周継(せっそんしゅうけい)の晩年、16世紀後半の作品に「自画像」がある。現存する日本最古の自画像とされ、美術史的価値も高い。けさ姿の老僧が履物を脱ぎ、如意(にょい)を持って竹の椅子に座っている。への字に結んだ口。細く鋭い目は何を見ているのか。背景には月が昇る雪山。右上の画賛には「興尽きて棹(さお)を回して去るに如(し)かず」とあるが、どこへ「去る」というのだろう。

 「死を観じているかのようだ」。三春町にある臨済宗の寺院、福聚(ふくじゅう)寺住職で作家の玄侑宗久さん(66)は「自画像」をこう見る。雪村が慕ったとされる同郷常陸の禅僧、復庵宗己(ふくあんそうき)が開いた福聚寺。雪村庵(郡山市西田町)はその末寺に当たる。玄侑さんによると、この庵(いおり)は福聚寺の住職が退任後に隠居する場所の一つで、「風水的に優れた土地」という。あの妙な居心地の良さは「気」のせいだったのか。

 「渾沌」へ帰る

 「人は死後、生まれる前の場所に『帰る』。位牌(いはい)に『新歸元(しんきげん)』と書くのはそういうこと」。禅宗の考え方を説く玄侑さん。「知らないところに『往(い)く』より『帰る』方が安心するでしょ」と笑う。玄侑さんは、「自画像」の背景にそびえるのは中国の伝説上の山で、天から気が注ぐ「崑崙(こんろん)」、そして全てが生まれ、帰っていく「渾沌(こんとん)」だと読み解く。いずれも、雪村が親しんだ道教のシンボルだ。

 「雪村は『ああ、楽しかった』と、本当に興が尽きて崑崙、渾沌へ帰る気じゃないかな」。玄侑さんもこう言ってうなずいてくれたが、「自画像」の顔はどうもしらふには見えない。だいぶ楽しんだし、鼻歌でも歌いながら、その時は気分良く去ろう―。ご機嫌な「死の観じ方」があってもいい。

 雪村庵の裏手に広がる竹林には、古い墓石が散在している。この中に、雪村の墓と伝わるものがある。平たく、丸みを帯び、黒みがかった、何の変哲もない花こう岩だ。いつ倒れてしまったのか、寝そべるように横たわっている。傍らのどっしりした石は、江戸時代に庵を再建した高僧、一元紹碩(いちげんしょうせき)の墓とされる。

 事の経緯は、雪村庵の扁額(へんがく)の裏面に一元自ら記した由緒に詳しい。いわく「雪村という僧がここに小院を構え、観音像を安置し絵を描いていた」と聞いて訪れたが、屋敷は荒廃していた。そこで、三春藩の助力を得て再建。「雪村庵」と名付け、住んだ。山号は雪村桜、雪村梅と呼ばれる古木にちなみ、「桜梅山(おうばいさん)」とした。完成は1658(明暦4)年。一元が屋敷跡を訪れた時には、雪村の死後80年余りが過ぎていたという。

 一元は、三春藩主秋田氏の菩提(ぼだい)寺、高乾院の住職だった。秋田氏は関ケ原の合戦後、佐竹氏に代わり常陸に転封されたが、45(正保2)年に三春へ国替えとなる。これに伴い、一元は常陸の高乾院から三春に移った。常陸といえば、雪村の出身地だ。一元は雪村を知っていた―。こんな推測が頭をよぎる。

 興味深いことに一元は秋田氏の生まれで、異母兄は藩政の中軸を担った家老の秋田四郎兵衛。一元は後妻の子だった。ここに人生の屈折を見るのは現代的発想かもしれない。だが出自を巡る因縁は、武将の一族に生まれながら廃嫡された雪村と似たものがある。

 時超えた奇縁

 三春町歴史民俗資料館副館長の藤井典子さん(56)は「一元には雪村への共感があったのでは」とみる。由緒には四郎兵衛の名が見え、一元に喜んで協力したことがうかがえる。「形は違えど、雪村と一元の人生は三春で幸せな帰結を迎えたのでしょう」。藤井さんは交錯する僧侶たちの人生に思いをはせた。

 薄暗い竹林の中で、墓を並べた2人の奇縁を思う。何かを伝うように、人間の運命が常陸から三春へと流れていった。復庵をたどった雪村、雪村を見いだした一元。時間を超えて、僧たちのはるかな行脚を追ったような心地だ。墓の前でこんな感慨にふけっていると、後ろから背中をつつかれたような感触が。「気」のせいか。(高野裕樹)=第1部おわり

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 主な参考文献 研究・概説書=雪村顕彰会「雪村」創刊号~第3号、小川知二「もっと知りたい 雪村 生涯と作品」、赤沢英二「雪村周継」、川延安直「ふくしま近世の画人たち」、磯崎康彦「福島画人伝」、大江孝「雪村―三春・会津―」、福井利吉郎「岩波講座 日本文学 水墨画〈雪村新論〉」▽展覧会図録=「特別展 雪村 奇想の誕生」(2017年、東京芸大美術館など)「開館記念特別展 雪村―三春への道―」(1983年、三春町歴史民俗資料館)