【佐藤巌太郎(下)】小説・会津執権の栄誉 合戦記憶...今は遠くに

 
磐梯山とその南麓に広がる、収穫後の水田地帯。この一帯がかつて合戦の行われた摺上原だとみられている=猪苗代町・磐梯山眺望箇所付近から

 県道7号猪苗代塩川線は、車で走っていて気持ちのよい道の一つだ。猪苗代町南部と、喜多方市塩川町の塩川駅前とを結び、磐梯山の南麓をほぼ真っすぐ東西に横切っている。そのため、磐梯山南側の全貌を堪能しながらのドライブになる。

 ことに、猪苗代町から磐梯町境にかけての眺めは爽快だ。県道の北側は、なだらかな斜面に農地が開かれ、四季折々に異なった美景を広げている。訪れた日も、秀峰の裾野では、枯れ草が日を浴びて蜂蜜色に光っていた。そんなのどかな場所が、古戦場なのだという。

 忠誠伝える碑

 1589(天正17)年6月5日、この磐梯山南麓で、会津に攻め込んだ伊達政宗の軍勢と、会津の古豪、芦名氏の軍勢とがぶつかり合った。「摺上原(すりあげはら)合戦」などといわれる戦いである。

 福島市で執筆活動を続ける作家、佐藤巌太郎さんは、自身の歴史小説「会津執権の栄誉」で、この合戦を物語のクライマックスとして重厚に描いた。

 同書は、会津芦名家の滅亡を軸にした連作短編集。それぞれ主人公の異なる6編のドラマが展開される。このうち摺上原合戦をクローズアップした1編が、書名にもなっている「会津執権の栄誉」だ。芦名家臣団の筆頭、つまり会津の実質的な最高権力者である金上盛備(かながみもりはる)は、祖国の命運を決する戦いの渦中で、残酷な幕切れを悟りながら、最後の行動に出る。現在の戦場と過去の記憶とを往来しながら独白のように語られるストーリーが、執権を任じる男の内面を静かにあぶり出す。

 戦闘に関する説明的な記述や描写をそぎ落としたドライな文章も、戦場の不気味な空気感を醸し、たまらないのである。

 この、現在の磐梯山南麓からは想像のつかない戦争の痕跡を探し出そうと、地図を見た。すると「摺上原」の地名はどこにもない。史料を探すが、どこからどこまでとは書いていない。一体、摺上原はどこなんだ...。取りあえず現地へ行った。

 予習が不得意な記者が、この段階で手掛かりにしたのが、猪苗代町出身の同僚の言葉だった。「県道沿いの磐梯山を眺める場所(磐梯山眺望箇所)か、工場から北へ進むと、昔の街道沿いに碑や一里塚がある」

 要領を得ないが、とにかく県道から北側、農地や雑木林、ペンションなども点在する緩斜面一帯をうろうろする。途中、地元の人にも聞くが、南麓は開拓され地形も変わっているので「分からないのでは」とつれない言葉が返ってきた。

 焦りつつ探索を続けると、県道北側の町道に「御上覧場一里塚200m」の案内板を見つけた。北へ緩斜面を上ると、林の中に土まんじゅうがポツンとあった。解説板によると江戸時代のもので合戦とは無縁だが、ここを旧二本松街道が走っていたと分かった。調子が出てきたぞと、町道を少し東へ行くと今度は「三忠碑・旧二本松街道松並木350m」の看板が現れた。

 三忠碑は、摺上原合戦で主君芦名義広の危急を救い討ち死にした家臣金上盛備、佐瀬種常、佐瀬の子平八郎常雄の三士の忠誠を後世に伝えるため、会津藩主松平容敬が1850(嘉永3)年建立した顕彰碑だという。

 やっと出会えた合戦の記憶である。金上盛備の名もある。ただ石碑の周囲は、血生臭さとは無縁だ。手入れされた太いアカマツが立ち並び、地表を覆った落ち葉が絨毯(じゅうたん)に見える。街道跡も分かる。江戸時代は快適な休憩所だったのだろうか。

 散り際照らす

 ちょっとした満足感を覚えたが結局、摺上原がどこなのか、三忠碑にも答えはなかった。最後はプロに聞こうと、猪苗代町図書歴史情報館を訪ねた。すると「断定できないが摺上原は、三忠碑と(西方面の)七ツ森の間」と同館の小椋正久さん(43)。合戦の推定図も見せてくれた。「摺上」の地名も「磨上」として磐梯町に残っていた。気付けば、さまよっていた辺りが古戦場だったようだ。

 さて「会津執権の栄誉」のラスト。金上盛備は、自身が下した「過去の決断」を思い返しながら、大逆転への望みを懸け、政宗のいる敵本陣へ突入する。

 「決断」とは、合戦の3年前、芦名家当主が亡くなり、跡継ぎにする養子を他家から迎える時、伊達家からではなく、佐竹家から義広を迎えるというものだった。これは史実で、小説中、金上は、この決断が芦名を滅亡に招いたことをかみしめる。

 一方、林哲著「会津芦名四代」によると、金上盛備の摺上原での行動は「芦名家記」「会津戦記」などの史料によって細部が異なり、不明なことが多い。巌太郎さんが描いた金上の行動も、二つの史料とは少し違う。

 ただ、味方の兵が撤退する中、金上が少人数で敵陣に突入したという点は、いずれも同じだ。

 巌太郎さんは「実際に戦う者が皆、戦うことだけを考えているわけではない。日和見する味方に遭遇した老将の胸に最後によぎった思いは何だったのか、を想像した」と言う。

 改めて冬枯れの山裾に目をこらす。合戦の痕跡はなく、風景の中の記憶など徐々に溶けていくのだと気付く。だから人は思いを巡らすのだろう。

【佐藤巌太郎】小説・会津執権の栄誉(下)

 【摺上原が望める磐梯山眺望箇所へのアクセス】JR翁島駅から徒歩で約10分。磐越道・猪苗代磐梯高原インターチェンジから車で約10分。

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 【摺上原合戦】会津芦名氏の滅亡を決定付けた、芦名軍と伊達軍との合戦。現在の猪苗代町、JR翁島駅北東付近を最前線に、七ツ森までの西側に芦名軍、八ケ森(現龍ケ馬場付近か)までの東側に伊達軍が陣取ったと推定され、1589(天正17)年6月5日早朝、開戦した。芦名1万6千騎、伊達2万3000騎が参戦したといわれる。序盤は芦名軍の先陣、富田将監勢が、伊達方の先陣猪苗代盛国勢を突破し、さらに二陣原田宗時勢、三陣片倉景綱勢を崩した。しかし、横方面からの鉄砲による攻撃で兵力を減らした富田勢は、敵本陣への進撃を続けたが、後方に陣取る味方が動かず、霧散した。その後、芦名勢は総崩れとなり、芦名当主、義広も黒川城に退却。勝敗は昼すぎには決したとみられる。その後、敗戦の責めを負った義広は6月10日、会津を出て佐竹家に戻り、会津芦名家は滅亡した。

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 【金上盛備の決断】芦名家では1586(天正14)年、当主亀王丸が3歳で没し、男系の血統が途絶えた。このため、他家から迎える跡継ぎ選定の家臣団評議が行われ、伊達政宗の弟小次郎と、佐竹義重の次男白川義広が候補に挙がった。当時、伊達は現在の中通り北部にまで勢力を拡大中。北関東の雄佐竹も中通り南部などに力を持ち、芦名は伊達、佐竹の二大勢力のはざまに立たされていた。評定は激論の末、家臣筆頭の金上盛備らが推す佐竹出身の義広で決着した。この決断を機に、伊達の会津侵攻も決まったとみられている