【平成6年】双葉高が14年ぶり甲子園 均衡破る主将の一打『聖地1勝』

 
14年ぶりに出場した夏の甲子園で初戦の市和歌山商戦の9回表2死三塁、中前適時打を放つ遠藤さん=1994年8月14日

 「あの歓声も、息詰まる攻防も生涯忘れられない」。川内村職員の遠藤拓郎さん(42)の脳裏には、憧れの甲子園の土を踏んだ1994(平成6)年の夏の記憶が鮮明に刻まれている。

 強豪として知られた双葉高は同年、14年ぶりに全国高校野球選手権大会に出場。主将としてナインをまとめ、守備では捕手、攻撃では4番を務める大黒柱として全国に挑んだ。

 8月14日に行われた初戦の2回戦で市和歌山商(現市和歌山)と対戦。双葉のエース田中貴幸投手(3年)と市和歌山商の小谷直稔投手(同)の投げ合いでゼロ行進が続いた。「双方の投手の調子が良く、緊張の連続だった」

 9回表2死三塁の好機で打順が回ってきた。「ここまで打てずにチームに迷惑を掛けた。何が何でも点をもぎ取る」。4番の重圧と闘いながら背水の思いで打席に立った。2ボール1ストライクからの直球を振り抜いた。「割れんばかりの歓声が聞こえた」。打球は投手の足元を抜け、中前への先制適時打となった。

 9回裏には、田中投手が足をつるアクシデントに見舞われたが、気力で三者凡退に抑え、1―0で接戦を制した。スタンドでは、双葉町から応援に駆け付けた200人を超える同級生、町民が歓喜の声を上げていた。エースの完封劇を「田中はチームの絶対的な存在だった。素直に『さすがだな』と思った」と思い返す。

 2011(平成23)年の東京電力福島第1原発事故で、母校を取り巻く環境は一変した。校舎のある双葉町は全町避難を余儀なくされ、いわき市にサテライト校が設置された。野球部は選手の転校などで部員不足に陥ったが、相双地区の他校と連合チームを組むなどして大会に挑み続けた。

 16(平成28)年夏、後輩たちの雄姿を見ようと郡山市の開成山球場に足を運んだ。「ひたむきな姿に励まされた」。村職員として復興への難題に立ち向かう力をもらった。

 サテライト校として授業を続けてきた母校は17(平成29)年、生徒数の減少などにより休校となった。「双葉のユニホームを忘れないでほしい」。15(平成27)年に結成したOBチームの一員としてマスターズ甲子園出場を目指し、母校と同じデザインのユニホームを着て今も野球を続けている。「いつか母校が復活するまで、ユニホームをつないでいく」

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 双葉高野球部 夏の甲子園に1973(昭和48)、80、94年の3度出場。94年は初戦を突破した後、3回戦で準優勝した樟南(鹿児島)に1―4で敗れた。学校は東京電力福島第1原発事故で避難を余儀なくされ、2017年度から休校している。これに伴い、野球部など4部が廃部となった。

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 【平成6年の出来事】
5月・伊東正義元外相が死去
8月・高校野球・双葉高が14年ぶり夏の甲子園へ
  ・郡山市が誘致したテキサスA&M大郡山校が閉校
11月・衆院小選挙区比例代表並立制の区割り法などが可決され、中選挙区制の3選挙区から5選挙区に