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隠居後、猛勉強し頭角
忠敬は、若いときから学問を好み、数学、地理、天文学に親しみ、1794(寛政6)年12月、五十歳で家督(かとく)を長男景敬に譲り隠居し、翌年江戸に出た。隠居宅は深川黒江町だった。忠敬隠居の地には標石がある。
忠敬は早速、江戸浅草にある幕府の天文方暦局を訪ねた。幕府天文方の若き秀才、十九歳年下の高橋至時(よしとき)について天文学を学ぼうと入門を願い出た。
至時に「伊能さんは高齢でもあり、理数の学問は無理でしょう」と言われ、なかなか入門が許されなかった。何度も願い出てやっと入門が認められ、その後猛勉強が始まった。
幕府天文方は至時門下生で全国の英才が集まった頭脳集団だった。その中で忠敬は測量・天文観測などを修め頭角を現していく。そして、自宅黒江町に私設の天文台を造り天体観測を始めた。
そのころ、至時らの暦学者は、緯度一度の長さがどれくらいあるかを学問上の大きな問題としていた。
緯度一度の南北の距離については、二十五里、三十里などいろいろな説があり、いずれも実測に基づいたものではなかった。緯度一度の長さが確定しなければ、子午線の長さは分からない。よって、地球の大きさも測れないわけで、これは暦学上の大きな問題でもあった。
忠敬もこれに強い関心を持ち、浅草の暦局と黒江町の自宅が二十八町(3キロメートル)ばかり離れていたところから、この両地点の緯度の差と距離によって、緯度一度の長さを算出しようと試みた。
忠敬は暦局まで歩いて通っていたので、何回も歩測を繰り返し、歩幅は69センチと訓練していた。
そこで至時に相談したところ、「たとえ距離を精密に測定することができたとしても、そんなに小さい緯度の差や距離から、正しい値は求めることは無理です。もうしばらく待ちなさい」と諭された。
師匠である至時は、基準とする距離が江戸の町の測定距離では短過ぎて不正確であり、江戸から蝦夷(えぞ)地ほどの距離を基にすれば推測も可能であろうと教えた。忠敬は至時に奥州街道を北上し蝦夷地までの距離を測定する計画を上程した。
忠敬から相談を受けた時、既に至時は、緊迫する政治情勢をにらみながら蝦夷地測量の計画を考えていた。18世紀の後半には、鎖国日本の近海にしばしば外国の艦船が現れ、通商を求めて幕府を悩ますようになっていた。
(伊能忠敬研究会東北支部長)
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松宮 輝明
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伊能忠敬の隠居の地跡に立つ標石を訪ねた筆者 |
2011年2月2日付
福島民友新聞に掲載
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