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>>> 俳諧にも深い造詣 <<<
 
 俳句のまち須賀川に足跡


 1800(寛政12)年から全国の地図を始めた忠敬は、俳句のまち須賀川を3回を訪れている。その折、忠敬は須賀川の本陣三沢源左衛門宅(南部藩御用)に宿泊した。

 宿場町で賑(にぎ)わう須賀川本町の源左衛門宅の近くに、江戸時代には珍しい須賀川ガラスがあった。ガラスの歴史は薩摩切子(さつまきりこ)より古く、本町の安藤辰三郎家で盛んに須賀川ガラスが作られていた。須賀川ガラスは松平定信が奨励し、寛政年間に長崎の吹きガラスを学ばせて、始めさせたといわれている。

 科学に興味を持つ忠敬は、須賀川ガラスや亜欧堂(あおうどう)田善(でんぜん)の銅版画などの様子を聞いた事と思われる。

 本町の相楽等躬宅には俳聖松尾芭蕉が1689(元禄2)年に7泊8日間逗留(とうりゅう)し句会を開き、紀行文「奥の細道」に『風流の初めや奥の田植え唄』『世の人の見つけぬ花や軒の栗』などの俳諧を残した。忠敬は俳諧、短歌、狂歌、漢詩などに造詣が深く忠敬日記にもいくつかの記載がある。

 忠敬は俳号を東河、父の貞恒は俳号を都船と称し、房総では広く知られた俳人であった。18世紀以降、九十九里浜は地引き網漁業の盛況の元に、多くの文人、墨客が訪れ、食客として長期に滞在し、網元は江戸の文化人の経済的支援者の役割も果たしていた。一方、九十九里地方の学者と文化人は、江戸の学者たちとの交流があり、影響を受けた。忠敬の伯父である小堤の神保梅石は芭蕉の系譜につながる俳諧の家筋であり、一族から四十余人の俳諧の宗匠(そうしょう)を輩出している。

 一方、上総の女流俳人織本花嬌は小林一茶との交流があった。房総俳人の代表格である白井鳥酔は、上総地引村の豪農の長男として生まれ、江戸に出て芭蕉門の佐久間柳居に師事し、その後を継いで宗匠となった。

 芭蕉伊勢派の俳人鳥酔は伊能忠敬親子の師で、江戸で二百人の一派を成し『五人墨』『俳諧七部集』を出版している。鳥酔は芭蕉を追慕(ついぼ)し白河、須賀川、郡山、二本松、信夫の里、松島を訪れ、須賀川で『尋ねきて見付けぬ栗や庵の跡』と詠んでいる。

 第2次測量で忠敬は奥州白川領と下野黒羽領の藩境で『境の明神』の玉津神社の標識杭(くい)に記載されていた句「白黒と同じ神霊をかっこ鳥」と、常陸の国、会瀬で能因法師の歌枕「藻塩草」に「七夕の会瀬の浦に寄るなみに よるとはすれど たち帰りつく」と詠まれていた和歌を伊能日記に記している。

 忠敬は科学のみならず俳諧、短歌、漢詩にも造詣の深かったことが文献から伺(うかが)われる。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)


「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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南部藩参勤交代絵図「境の明神社殿」(東洋書院斉藤勝己氏提供)

2011年2月23日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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