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>>> 上小屋本陣の内山茂市宅 <<<
 
 日記に「家作よし」と褒める


 伊能忠敬は旧暦6月22日(西暦7月21日)上小屋村(現白河市大信隈戸上小屋)の本陣内山茂市宅を止宿とした。下総佐原の大富豪である忠敬は滅多(めった)に(止宿を)褒めることはなかった。しかし伊能日記には内山宅を「家作よし」と記録している。

 日記を読むうちに本陣の内山家の家作について興味が湧いてきた。白河市の内山家の当主内山正樹氏を訪ねた。

 「当家は本陣、大庄屋、問屋として酒、味噌(みそ)、醤油(しょうゆ)などの醸造業を生業(なりわい)としておりました。家は総檜(ひのき)造りの立派な御殿でしたが、私が小学校三年生の時で昭和23年3月31日にもらい火で全焼しました。会津より茅葺(かやぶき)職人を呼び、二年がかりで屋根の吹き替えを終えたばかりの火災でした」と生々しく話された。

 忠敬が内山家に泊まり、天体観測を実施した事を話すと、内山氏は「初めて知りました。伊能測量隊が泊まり、観測したことは、大変名誉なことです。上小屋村は村興(おこし)の一環として栃木県黒羽町(現大田原市)に習い、町並みに本陣、高札場、帳場、旅竈(はたご)・白川屋、車屋、髪結屋などの屋号を掲げ、各家の生業を標記しております」と話された。

 内山家と親威で八幡神社の禰宜(ねぎ)の増子克紀氏は「内山家の先祖は源頼朝の家臣三浦平太郎為道です。会津芦名氏の重臣として三浦半島より会津に移り、戦禍を逃れ、上小屋に落ち着きました。内山家は代々、本陣、大庄屋、問屋を務め、白河藩主松平家より手当として二十三石(五十八俵)の禄(ろく)をいただいておりました。内山家は神道で村全体が八幡神社の氏子です。内山家は間口十七間半(約32メートル)奥行八間(約14.5メートル)の堂々たる造りの家作でした。蔵は五棟あり、上小屋の土地は全て内山家の所有でしたが、戦後の農地解放により45軒の小作人に解放しました。八幡神社には金の仏像が奉(まつ)られていたが、白河藩主松平定信公が気に入り、差し出しました。定信公より金の仏像の代わりに直筆の梅鉢入りのお札を賜りました。金の仏像は名古屋市の徳川美術館に所蔵されております」と話された。

 内山家は、二千石旗本格式の庄内藩酒田の豪商、本間家の屋敷とほぼ同じ大きさである。そして文化6(1809)年に描かれた内山茂市の肖像画を拝見した。

 帰り道、田圃(たんぼ)で鳴く蛙(かわず)の声を聞きなら、夏の夜空を仰ぎ、忠敬は上小屋の内山茂市よりもてなしを受けて、どのような一夜を過ごしたのであろうか。満天の星空から同年代の二人の会話が聞こえてきそうである。

(伊能忠敬研究会東北支部長)

「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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総ひのき造りの内山茂市宅(白河市大信隈戸上小屋)

2011年6月8日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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