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  【 「伊能忠敬測量隊」東北を行くTOP 】
>>> 猪苗代湖を遊覧す <<<
 
 噴火前の秀峰仰ぎ見る


 伊能日記には「勢至堂に至たるまでは山合で上平、唐沢まで下る」とある。勢至堂峠を下った最初の集落は郡山市湖南町三代唐沢で会津藩の番所があった。現在、唐沢には二軒の民家があり、街道の側には馬宿の星家がある。星チヨノさんは「私の家は馬宿で隣が番所でした。今は畑になっております。番所には会津藩の侍が四人ほど詰めておりました」と話された。

 湖南町三代御代の会津史学会理事、石井義八郎氏は「私の先祖は唐沢の会津藩の番所に勤めており、番所には四人の者が詰めておりました。番所詰の名簿です。明治になってから、一人が士族に取り立てられました」と話された。伊能日記には「上平より三代までは谷合から平道になり二里二丁、八ツ(午後2時30分)頃、測量隊は御代村に着いた。村役人が刀を差し、唐沢の番所まで出迎えた。測量隊一行が到着すると会津藩郡役所の藩士『物書、川田乙四郎』がご機嫌伺(うかが)いに来た。

 乙四郎は藩侯にお目見えすることができる上級武士である。御代村の止宿の主、大庄屋二瓶文右衛門は本陣の会津領郷頭である。この夜は晴天で天体観測をした」と記している。御代の交差点角の大きな屋敷が二瓶家で子孫の方が住んでいる。

 翌朝、旧暦6月25日(西暦7月24日)五ツ(午前7時)に御代村を出立し、一里先の福良村で休み、赤津村には四ツ(午前10時)頃に着いた。伊能日記には「同所持ノ猪苗代湖水の端に至り一覧し、猶舟に乗って名所を見る」と記している。忠敬は赤津より湖畔の青松ケ浜の港に出て、会津藩が用意した舟に乗り、雄大な湖水を遊覧し、磐梯山の秀峰を見物している。

 磐梯山は明治21(1888)年に大噴火し、頂上の三分の一が吹き飛んだ。忠敬は噴火前の天にそびえ立つ磐梯山の秀峰を、湖水より仰ぎ見て感激している。帰路七ツ(午後5時)頃、だんだん大雨になり、赤津村の名主、吉田新右衛門宅を止宿とした。湖南町赤津南町の良田長造氏を訪ねた。良田氏は「私は名主、吉田新右衛門の縁続きの者です。名主の吉田家は会津街道の右側にあり、子孫の方は住んでおりません。この地は気温が低く、桜の花も会津若松城下より10日は後れて開花します」と話された。測量隊は翌日の旧暦26日朝五ツ前(午前7時)赤津村を出立し、高坂村、東田面村、内関場村(堰場)間を一里三十丁二十二間と測量し、原宿村に四ツ後(午前10時)後に着いた。止宿の本陣、坂内市郎右衛門宅は会津領郷頭である。夜は曇って観測することはできなかった。旧暦6月27日朝は曇天で涼しく、袷(あわせ)と襦袢(じゅばん)を着ている。市郎右衛門宅は会津街道沿い原宿の左側にあり、現在、子孫の方は会津若松市原郵便局長である。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)


「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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忠敬が舟を浮かべ遊覧した猪苗代湖と磐梯山

2011年6月22日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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