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  【 「伊能忠敬測量隊」東北を行くTOP 】
>>> 大塩村の山塩 <<<
 
 「甚だ白く、味は甘鹸」


 忠敬は、旧暦7月2日、塩川村を六ツ後(午前4時半)に出立し、東別府村、上利根川村、宮の目村、中の目村、熊倉宿に五ツ半(午前7時半)に着き、休息した。村の出口に大塩川がある。

 天気になり、四ツ頃(午前9時半)に出立し、高柳村、舘村、関屋村、樟村を通り、高曽根山の標高を測った。早い時間、九ツ後(正午過ぎ)に大塩村に到着した。止宿は本陣・検断の穴沢源吉宅で芦名一族の旧家であり、大塩村の石高は千石である。

 この村の谷合に塩水の湧き出す井戸があり、山塩を作っている。塩釜は6、7個あり、塩師の話では一釜に塩水二石(360リットル)を入れ、五釜に一〇石(1800リットル)の水を入れると山塩は五斗(90リットル)ができると言われている。

 郡役所の物書服部善内が毎日御用伺いに来た。忠敬は大塩村で産出する山塩について「その塩は甚だ白く、味は甘鹸(かんけん)(甘い結晶)である。塩は会津候の専用で売買はせず」と記している。

 北塩原村商工会の須藤仁一氏は「現在は大塩温泉の塩井より、塩水を汲(く)み上げ、薪(まき)を燃やして煮詰め、山塩を作っております。温泉水は45度を超え、塩分を含んでおり、赤い色をしております。穴沢源吉の子孫の方は高橋橋(はし)の穴沢健史氏です」と話された。忠敬が泊まったことを話すと穴沢氏は「忠敬が泊まったことは初めて知りました。大変名誉なことです。山塩は戦時中まで取っていました。穴沢家は芦名氏滅亡後、上杉氏に仕え9代目になります」と話された。

 忠敬は、房総九十九里の育ちで、海塩と山塩を比べて興味を持ち、丹念に調べ味わったことであろう。長州藩士の吉田松陰も嘉永5(1852)年旧暦3月27日、米沢城下を立ち、網木村から檜原村を経て大塩村に泊っている。

 松陰『東北遊日記』に「大塩村には塩水が地中から湧き出し、塩の井戸が二個所あり、温泉水は赤黄色で毎年4月から9月まで薪を用い、煮詰めて作っている。収穫量は六百包で、一包は四斗二升である」と記している。

 たばこと塩の博物館学芸員高梨浩樹氏は「大塩村の製塩は、会津藩の指示によるものです。藩内の需要をみたすもので、地元の塩で適応できた希有(けう)な例と言えます。明治当初の製塩廃止後も、樽(たる)で塩湯を持ち帰り、脈々と温泉利用の製塩が続いていたと思われます。第二次大戦末期、陸、海軍が製塩をしました。陸軍が温泉直煮、海軍が枝条加濃縮で濃度を高めて煎じました」と話された。

 ちなみに海塩の濃度は3パーセントの海水を塩田にまき、15パーセントに濃縮し、塩釜で煮詰める。大塩村の源泉は46度で塩水の濃度は1.6パーセントであるから、大量の蒔を伐採し、塩釜で濃縮して山塩が作られた。

 筆者も忠敬や松陰が味わった大塩村の甘みのある山塩を口に含みながら遠い昔に思いをはせた。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)


「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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大塩村の山塩
復元された旧大塩村の塩井戸

2011年7月20日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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