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会津と米沢を結ぶ要衝
桧原宿は明治21(1888)年、磐梯山の大噴火により川がせきとめられて桧原湖ができ、村は湖底に沈んだ。江戸時代、慶長10(1605)年、桧原で金山が発見されて多くの金堀り人足が入り、桧原村は大いに栄えた。
会津城下と米沢城下を結ぶ街道の要衝として人や物の流れも多くなり、宿場として発展した。戦国時代、伊達政宗、上杉景勝、直江兼続らの武将等も盛んに往来し、幕末には吉田松陰も歩いた道でもある。流通物資の取り締まりを行う「検断屋敷」も置かれ、松本氏が検断役を務めた。家数は五十九軒で、松本家前に会津藩より令される掟條目の制札(高札場)を掲げた。
忠敬が止宿としたのは村の中心にある問屋の喜兵衛宅であった。喜兵衛は若松城下で使う漆椀(うるしわん)生地(きじ)を作っている家である。
桧原村は耶麻郡に属していたが桧原谷地と呼ばれ、四方に大山峠があり朝夕、日光も差さず霜雪が早く降り、風も吹き、気温は低く、境内は広いが茅(かや)原で作物の採れない土地であった。
「村民は木地師で望陀(ぼうだ)の皮を剥(は)ぎ、あるいは旅籠(はたご)をもうけ駄馬に荷駄を乗せ生計を立てていた。租税丁役はなく村と称しているが諸組に属していない」と新編会津風土記は記している。
桧原、早稲沢、細野で産出された木地は全て小荒井、塚原、清治袋、村松新田、太郎丸など喜多方地方の塗師のもとに出され、会津藩の貴重な物産であった。
伊能日記に「一同家作よし」の記述がある。木材が豊富な山里で太い柱の家作であったのであろう。
伊能測量隊は、旧暦7月4日(西暦8月1日)、朝曇り、六ツ半(午前7時)桧原宿の喜兵衛宅を出立した。この朝も会津藩の物書服部善内は忠敬に最後の挨拶(あいさつ)に来た。測量隊は、金山より大川の川沿いを北上した。道幅一間ほどの米沢街道には鷹巣の一里塚、会津藩の「口留番所(くちどめばんしょ)」がある。
伊能日記は「一里十九丁、奥州、羽州の境則(すなわち)桧原峠に至る。ここまで会津領奥州耶麻郡なり。服部善内並びに桧原村宿御役人送り来る。これより則出羽国置賜郡にて米沢領なり。綱木村番所、米沢藩の役人も桧原峠領界迄出迎え待居、米沢領網木村、四ツ半前(午前11時)止宿の問屋、検断中川久四郎宅に着く」と記している。
平成17(2005)年、深山紅葉の中、筆者も桧原村(現北塩原村)金山より長井川沿いに旧米沢街道を歩いてみた。金山は江戸時代に金銀山の鉱山があり、長井川の川岸には会津藩が人や物資の流れを監視した口留番所跡があった。
街道の道幅は約一間、鷹巣の一里塚を過ぎ、林道を進むと「史跡旧米沢街道桧原峠別」の標識が見えてきた。その先700メートルが桧原峠となる。街道には倒木が重なり、川水で道が分断され、米沢藩との藩境塚のある桧原峠に行き着くことができなかった。難所の桧原峠を伊能測量隊は越えて行った。
(伊能忠敬研究会東北支部長)
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松宮 輝明
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消えた桧原村の歴史を今に伝える桧原村松本検断屋敷(現会津米沢街道歴史館)=北塩原村 |
2011年7月27日付
福島民友新聞に掲載
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