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米沢藩の記録から欠如
旧暦7月4日(西暦8月1日)、桧原峠の藩境に忠敬一行を出迎える役人が待っていた。ここから出羽の国の置賜郡米沢領である。大峠を下り中峠、小峠と屈曲が多く険しい道であったが、綱木村(米沢市綱木)の止宿中川久四郎宅に着いた。
久四郎は上杉家から帯刀を許された名主、検断、問屋である。綱木村は平家の落人の集落といわれ、地名は会津と米沢を結ぶ繋(つなぎ)の地に由来する。家数六十軒余、旅籠(はたご)屋も八軒あった。会津、関東から出羽三山の湯殿山参りの宿場として賑(にぎ)わっていた。
戊辰(ぼしん)戦争では綱木村名主の中川孫四郎が会津、猪苗代方面の戦況を米沢の御役所に注進している。近年、旧綱木村を訪ねると四軒の方々が住む過疎地になってしまっていた。
旧暦7月5日(8月2日)六ツ半頃(午前6時)、綱木宿を出立し、駅場の関町、立石村、李山村、笹野村を測量した一行が米沢城下入り口に着くと、徒士(かち)が先払いし、町役人が米沢城下東町の本陣遠藤孫左衛門宅に案内し九ツ後(正午)に着いた。米沢城下は上杉冶広侯十五万石の居城である。宿に今泉元四郎が挨拶(あいさつ)に来た。
仙台輝宗侯古城跡は米沢西一里余りに小山があり、館山と呼ばれる。忠敬は米沢城下より山形まで各村々の名主、問屋、年寄に泊触(通達)を出した。
東町の孫左衛門宅の真向かいは検断石田源十郎宅である。因(ちな)みに石田家は直江兼続の盟友石田三成の子孫であるといわれている。遠藤家は町医師格で間口十間、繭、生糸、からむしなどを扱っていた大店(おおだな)であった。かなり裕福な家で上杉鷹山(ようざん)侯の御伽(おとぎ)を務めた吉田綱富の日記には、遠藤家に招かれ、置き菓子にコンペイトウを出され、初めて口にした珍菓子に仰天した。遠藤家の販路、交際の広さが分かる。
鷹山侯は、上杉藩九代藩主である。鷹山侯の隠居時、十代藩主冶広侯の享和2(1802)年、遠藤家に忠敬一行が宿泊した。米沢市立図書館郷土資料担当の青木昭博さんは「どうしたわけか藩の公式記録には無い。検断石田源十郎の日記によると、『この年6月8日付で幕府から次のような通達があった。伊能忠敬測量班が江戸、日光、白川、若松を経て米沢に至り、その後上山から津軽の三厩(みんまや)まで測量して回る。駅では人足五人、馬三疋を用意してほしい。費用は地元負担』とある」と説明してくれた。
これを受けて藩では宿舎を東町の遠藤孫左衛門宅とし、賄いは一汁三菜として粗末の無いように取り扱えと孫左衛門に命じた。その夜は石田屋敷に天文道具を備え、雲間に星を測量し、米沢の緯度と経度を割り出した。
8月3日朝より晴れ、山々白雲多し。六ツ後(午前4時半)東町の孫左衛門宅を出立し米沢街道を北上した。道々里程を測り、北町はずれでは東西の山の高さを測量している。青木さんは「北町まで検断石田源十郎と宿元の孫左衛門が羽織、袴(はかま)で見送った。上杉藩物頭五百石の湯野川半左衛門様が失念した。役人の道案内は一人も来なかったと書いている。こういうことは珍しく、その後湯野川様には特にお咎(とが)めは無く、享和3年、六人年寄に取り立てられた」と話された。米沢盆地を貫く道は最上街道または赤湯街道と呼ばれている。
(伊能忠敬研究会幹事・東北支部長)
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松宮 輝明
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上杉藩15万石の居城跡(上杉神社) |
2011年8月3日付
福島民友新聞に掲載
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