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  【 「伊能忠敬測量隊」東北を行くTOP 】
>>> 喉を潤す「笈の清水」 <<<
 
 俳聖松尾芭蕉を思う


 測量隊は、旧暦7月6日(西暦8月3日)、米沢盆地を貫く最上街道を進み、紅花の里、温泉が湧く赤湯村(現南陽市)の丸森治郎左衛門宅を止宿とした。大文字屋の女将丸森恒子さんは「赤湯は鮎(あゆ)や鯉(こい)料理が名物ですが、忠敬先生は特にジュンサイが好物だったそうです」と話された。

 翌日、赤湯村を出立し上山に向かう。その途中の川樋村(同)出口に「笈(おい)の清水」がある。忠敬は笈の清水で喉を潤し、伊達政宗侯の歌『年を経て長江の里に住にけり笈の清水に老を忘るな』を日記に書き留めた。筆者も猛暑の中を訪れ、政宗侯も忠敬も飲んだその清水を口に含んでみた。なんともまろやかで涼やかな味であった。

 測量隊は次に中山村(現上山市)の酒造業佐藤孫七宅で休息し、藩境を越え、上山藩の村山郡に入った。米沢街道は三本松で羽州街道と合流する。羽州街道は東北内陸部を横断する主要な街道である。上山城下の入り口に差し掛かった。ここには道案内が来ず、会津、米沢藩より丁寧さに欠けていた。止宿は松平山城守三万石の城下本町の本陣、問屋原田弾蔵宅である。この夜、天体観測をしている。

 旧暦7月8日(8月5日)、上山城下を出立し、雨の中、藩境を越えて山形領に入った。坂を下って黒沢村(現山形市)に入ると、家続きの入り口に番所が置かれていた。南舘村(同)の出口の右方向に、千歳山と伝説の「あこやの松」を望むことができる。足軽先払、棒突、町役人など大勢の先導で秋元但馬(たじま)守の山形城下の旅籠(はたご)町に泊まった。止宿は分からない。この夜天体観測をしている。

 翌日、旅籠町から宮崎村(現東根市)までの街道を測量し、町はずれの馬見崎川が山形と、飛び地である佐倉領境である。この日は平たんな道筋を北上し天童をすぎ、宮崎村(同)の市郎兵衛を止宿とした。この夜、天体観測をした。旧暦7月10日(8月7日)、楯岡村(現村山市)、湯沢村(同)、土生田村(同)を経て尾花沢に向かった。尾花沢駅の本陣、宿老、問屋与三郎宅に落ち着いた。この夜から明け方にかけて大雨であった。翌日、尾花沢から新庄を目指す。名木沢駅(現尾花沢市)から峠を越えると、右は山と谷が続き、眼下の左側に最上川が一望できる。名木沢と舟形村(現舟形町)の境が村山、最上両郡界である。舟形村本陣、名主、問屋の早坂文平宅で休息を取った。なかなかの家で鑑定眼のある忠敬は器物なども大変良いと褒めている。

 舟形村の出口に瀬見川(現小国川)が流れている。この川は堀内村(現舟形町)で最上川に合流する。新庄藩戸沢氏六万八千石の城下町の津軽侯の南本陣、五日町の年寄、伊東弥三右衛門宅を止宿とした。宝暦7(1757)年の記録に伊東家は間口二十一間とある。

 新庄藩では町役人の出迎はなく、到着後も失礼なことが多々あり、忠敬は町役人を呼び出し、測量御用の趣旨を申し渡し叱責(しっせき)した。新庄では測量取調もあり二泊した。晴れ間をみて、町はずれから月山、鳥海山などの方位を測り、夜も天体観測をした。

 忠敬(俳号東河(とうが))は芭蕉伊勢派の俳人でもある。忠敬は夏の霊峰を望み、月山、鳥海山の句を詠んだ俳聖松尾芭蕉に思いをはせたであろう。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)


「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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政宗侯、忠敬が喉を潤した笈の清水を飲む筆者(南陽市川樋)

2011年8月10日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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