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  【 「伊能忠敬測量隊」東北を行くTOP 】
>>> 能代で日食観測 <<<
 
 悪天候で「成功せず」


 測量隊は、旧暦7月21日(西暦8月18日)、久保田城下(現秋田市)を出立し、土崎湊(同)で休息し、砂混じりの草原を通過して大久保村(現潟上町)の善兵衛宅を止宿とした。この夜、天体観測をした。翌日、大久保村に一泊後、八郎潟東海岸近くに沿って北上した。現在の国道7号線に相当する。途中、鹿渡村(現三穂町)の本陣で家作の良い近右衛門宅で休息し、次第に八郎潟から遠ざかり、森岳村(同)の名主勘左衛門宅に落ち着き、天体観測をしている。

 旧暦7月23日(8月20日)、森岳村を出立すると、豊岡村(同)の先に羽州街道と能代街道の追分があり、ここを左に進むと能代町(現能代市)に到着する。庄屋、町役人、宿老らの出迎えを受けて能代万町の能登屋半六宅を止宿とした。この地では日食を観測するため、旧暦8月3日(8月30日)まで十一日間の長期滞在となった。

 旧暦8月1日(8月28日)午後に日食が予測されおり、幕府天文方の高橋至時との打ち合わせで、能代町での日食現象の観測を予定していた。経度の異なる地点の江戸と能代で日食現象を観測すると、相互の時刻差から経度の差を割り出すことができる。直ちに全員で日食観測のための南北線(子午線儀)を設置し、ようやく翌日に準備が完了した。

 横手城下より連日残暑が厳しく、忠敬は体調を崩していた。その夜、忠敬に日本全図の作成を命じた幕府若年寄の堀田摂津守に夢枕で拝謁(はいえつ)したことを「この夜、夢に堀田侯に拝す」と記している。「何としても日食の観測を成功させなければ」との強い思いが伊能日記の行間から読み取れる。毎日、気象条件が定まらない。前日は豪雨の後の暴風で、太陽の南中時刻を起点に作動されていた垂揺(すいよう)球儀(きゅうぎ)(振り子時計)が停止してしまった。旧暦8月1日(8月28日)は不運にも曇りがちで、日食開始時刻から太陽は見えず、復円直前に朦影(おぼろかげ)を観測するにとどまった。幕府天文方暦局の師高橋至時宛ての公文書には、「日食観測成功せず」の書状を送った。

 旧暦8月4日(8月31日)、能代湊を出立し、隊員を二手に分けて羽州街道、能代街道の追分から桧山村(現能代市)まで測量し、飛根村(同)の本陣冶左衛門宅に泊まり天体観測をした。旧暦8月5日(9月1日)、米代川をさかのぼり綴子村(現北秋田市)で高台にある家作がよい本陣高橋八郎兵衛宅を止宿とした。その夜、天体観測をしている。翌日、旧暦8月6日(9月2日)は暦の上の二百十日であったが無風で残暑が厳しく、大館村(現大館市)に入り、津軽候本陣である浜松新六宅に着いた。

 翌日、大館村から羽州街道を北上して山間部に入り、釈迦内村(同)、長走村(同)を経て矢立峠の険阻(けんそ)な登り道になる。道は狭く木の下は闇、その上暴風雨となり測量は大変難儀し、ようやく峠の上の久保田藩領と弘前藩領の藩境に辿(たど)り着いた。碇ケ関宿(現青森県平川市)の町役人一人が出迎え、峠を下った。峠の下は平地で左右に弘前藩の小番所があり、南部藩との通行と伐採木の運搬を確認するため、碇ケ関町入り口に普請の良い大番所がある。なかなか厳重だったので、奥州一の番所だろうと忠敬はみた。碇ケ関町の止宿は与十郎宅である。その夜、嵐になり稲作に被害が出たと記している。

 (伊能忠敬研究会東北支部長)


「伊能忠敬測量隊」東北を行く

松宮 輝明

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伊能図の男鹿半島と八郎潟。男鹿半島は第3次測量の往路と青森の三厩からの帰路に測量している

2011年8月24日付
福島民友新聞に掲載
 

 

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