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 【堀 市郎   病気療養に絵を勧める 〈2/1〉
 

英世の肖像画を描く堀市郎(左)(木暮葉満子さん提供)
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 野口英世自筆の絵が数多く残されている。その絵を見た誰もが、「天才は何にでも秀でているもんだなぁ」と感想を漏らす。実は、英世がこのように素晴らしい絵を描けたのは、ニューヨークのアパートで英世の隣に住んでいた画家の堀市郎に絵を見てもらっていたからである。

 市郎は英世を評して次のように述べている。

 「チフスの病気の後、シャンデーケンの別荘で静養することになり、私はスケッチバッグを贈った。それまでは油絵を画かいたことはなかったが、顕微鏡の図は前から画いて立派な絵が今でもたくさん残っている。野口のような人は観察は鋭いし、大胆でつかんだものをしっかり表現しているし、本当に大したものである」

 市郎から贈られた絵の具や箱が現存しており、箱の蓋ふたには英世が自筆で次のように書いている。
 「私が静養に出発する宵に、尊敬する友人堀市郎君より餞別せんべつとしてこの箱を贈られる。これで以もって楽しみ慰められ、私の心を満たしてくれるだろう。(原文は漢文)

 大正6年8月6日マウント・サイナイ退院後 湖柳英世誌しるす」

幾年も続いた将棋対局

 市郎は、英世の将棋の相手でもあった。碁の相手は、ニューヨークで活躍していた彫刻家の川村吾蔵が当たった。吾蔵は生前の英世をスケッチして、英世が亡くなった後に像を制作した人でもある。吾蔵が市郎と英世の将棋の様子を記述している。

 「野口さんが勝ち出すと、堀君が待ったをかけ、三手、四手も遡さかのぼって最後に堀君が勝つまで待ったをする。2回戦は野口さんが勝つ。それで一勝一敗で夜遅くなり、その翌晩に対戦する。これが幾晩も幾年も続いた」

 市郎は明治12年4月、島根県松江市中原町で、堀宗太郎の長男として生まれた。英世より2歳半ほど若い。堀家の祖父、父ともに松江藩主松平直政に絵師として仕えた士族であった。

 市郎は明治23年、松江市の尋常小学校を卒業すると、市内の森田写真館に入り修業、同30年に上京し写真館に勤務した。市郎はさらに修業を積むため、4年後に渡米する。ちょうど英世が渡米したころであった。市郎はその後、サンフランシスコ、セントルイス(博覧会が開催されたため)、ニューヨークの写真館に移っている。

 英世と市郎との出会いは、明確ではないが、明治45年、英世が結婚し市郎のアパートの隣に引っ越してから、2人の交友は親密になった。同年に市郎はニューヨークの五番街にスタジオを開設し、英世はこのスタジオで頻繁に写真を撮っていて、このスタジオで撮った英世の写真は現在も多く残されている。

 市郎はさらに米国国立美術学校に学び、肖像写真、肖像画などを研究、数回にわたり国立アカデミーおよびミネアチェアペインタース協会の展覧会にも入選するほどであった。英世が療養中、心を癒やすのに絵を勧めたことは、前述した通りである。また、市郎はニューヨーク時代、交流のあったヘボン博士の肖像画を描き、現在、横浜市海港資料館に保存されている。

大使館に英世の肖像画

 昭和10年代に日本に帰国、スタジオを横浜に開設、自宅は大磯へ移し画家として余生を送った。英世の生前に手掛けた肖像画を完成させ、昭和35年、在アフリカ・ガーナ共和国日本大使館に寄贈、今も大使公邸に設置されているという。
 市郎は終生結婚しなかったが、会津出身の鈴木智子さんを養女とした。市郎の追悼録には、英世をアクラに行かせたのを悔やんでいたことが記述されている。市郎は昭和44年1月、89歳で亡くなった。
 


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