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 【エブリン・ティルデン  最高の研究パートナー〈2/15〉
 

【エブリンティルデン】

野口研究室のスタッフ。前列中央が英世、その左端がティルデン
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 ロックフェラー医学研究所の事務長ジェームズによって、野口英世が出張中に秘書が解雇され、英世が消沈している姿を見かねた所長フレキスナーは、一人の女性を英世の秘書として採用した。その人がエブリン・ティルデンであった。

 ティルデンは1891(明治24)年、マサチューセッツ州ローレンスに生まれ、メーン州の小さな町に育った。17歳の時に、一度結婚まで考えたが、家族が寄宿舎に入れたため、その恋は実らず、その時に一生結婚しないと決心したという。ブラウン大学の女子校であるベンブローク女子大学で英文学と外国語(ドイツ語とフランス語)を専攻。卒業直後、牧師だった父が急死し、自分一人で母を養っていかねばならなくなり、病院に勤めていた。そのことが縁で、フレキスナーの秘書が英世の秘書として紹介してくれた。

英世執筆の論文を添削

 ティルデンが来るまでは、英世の英文はすべてフレキスナーが見ていたようだ。英世はティルデンの経歴を知って、執筆中の論文の添削をティルデンに依頼した。完成した論文をフレキスナーに提出したところ完かん璧ぺきであったので、フレキスナーはティルデンを呼び、引き続き英世の英文を見るように話した。この時から、英世の研究論文は、ティルデンの存在なしには成り立つことはなかった。

 ロックフェラー医学研究所での野口英世研究室には、数人の研究助手がいた。その一人でスティーブンという23歳の技術員が、1918年3月、ロッキー山紅班熱を発病、1週間で亡くなった。未亡人と幼児を残されたことに英世は責任を感じて、肩を落とした。

細菌学の教育を受ける

 この病気は日本での「ツツガムシ病」によく似ているもので、英世が大正4年、日本に帰国した時に興味を持ち、再渡米してから研究を始めたものであった。スティーブンが動物に病原菌を接種している最中に、その注射針で引っ掻かき傷を作って、そこから感染したことを知った英世は、助手に任せないで、その仕事を自ら行うことにした。しかし間もなく英世は、ティルデンに実験に携わるよう勧め細菌学の教育を受けさせるようにした。ティルデンは次のように話している。

 「野口先生の助手になった私の最初の課題は、口こう腔くう中のスピロへータを培養することでした。これが私の細菌学概論への入門というわけでした。学級単位でやる細菌学実習の第1回にこういう実験を選ぶということはまずないでしょうけれども、野口先生のやり方はどこでもいいからまず手をつけて、そこから前進したり後退したりしながら仕事を進めていくという方式で、私には他の方法に勝るとも劣らない良い方法でしたわ」(プレセット著『野口英世』より)

 このようにして英世の指導のもとに始まった医学研究は、ティルデンにとっては魅力的なものになり、本格的に学ぼうとコロンビア大学に入学、修士の学位を得た。さらにウッズホール海洋生物学研究所で上級コースを取っている。

 ティルデンは英世が亡くなるまでの12年間、英世と一緒に働き、英世の死後、フレキスナーの要望で3年ほど英世が残した研究を行った。ティルデンは英世の研究の最高のパートナーであり、協力者であった。ティルデンはその後、ノースウエスタン大学医学部の正教授となった。

 シンシナティ大学教授エクスタインが英世の伝記を書くためロックフェラー医学研究所を訪れたが、フレキスナーは協力を拒絶、ティルデンにも会うことを禁じた。ティルデンは自らも英世の伝記を書きたいと考えていたほどであったので、エクスタインの伝記に英世の本当の姿を記録しておかなければと考え協力、添削もしたという。ティルデンは1983(昭和58)年に亡くなった。
 


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