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 【ウイリアム・ヤング  黄熱病研究 親身に支援〈2/22〉
 

ウイリアム・ヤング

ヤング(右から2人目)と英世(左から2人目、後ろ向きの人)
【33】
 
 1927(昭和2)年9月19日、ロックフェラー医学研究所員で、アフリカでの黄熱病研究者であるエイドリアン・ストークスが黄熱病で亡くなったとの知らせが野口英世のもとに届いた。英世は同僚の死にショックを受けた。

 予かねてより英世は、南アメリカでの黄熱病研究の成功を受けて、アフリカで流行していた黄熱病研究に取り組んでいた。研究はなかなか進んでいなかったので、アフリカ遠征をロックフェラー医学研究所に要望していた。所長フレキスナーは、英世の遠征に反対であったが、ストークスの死によって、英世のたっての願いを了解せざるを得なかった。

 10月22日、英世はアフリカに向けて、イギリスのリバプール行きのサイツイア号に乗船し、ニューヨークから出発した。リバプールではアッパム号に乗り換え、一路目的地である西アフリカに向かった。英世は当初、ロックフェラー財団の黄熱病調査隊の本部があるナイジェリアのラゴスに行く予定であったが、黄熱病患者がラゴスに行く途中、ガーナのアクラで多く報告されていたこともあり、ここに研究拠点を置くことになった。

 アクラでの研究は、イギリスが研究所を設けていて、ウイリアム・ヤングが所長をしていた。ラゴスのロックフェラー財団の調査隊からは、ブラジル出身のアレグザンダー・マハフィーが派遣されていた。マハフィーは外国人医師を警戒していた現地の人たちに信頼されていたため、アクラでの黄熱病が多く報告されていたようだ。

 警官に蚊の対策を指示

 英世がアクラに到着すると、ヤングはマハフィーの宿舎に同居させた。研究所から5キロほど離れていたが、黄熱を媒介する蚊が比較的少ない地であったのが理由であった。ある時、英世は医学生のバッチェルダーがバンガローを独り占めにしていることを聞きつけ、そこに住むことにした。ヤングは心配して、イギリスの警官に蚊の対策を施すように指示をした。

 ヤングは英世の研究に協力を惜しむことなく、ヤング自らも組織標本を作る作業を手伝った。英世はロックフェラー医学研究所の助手ティルデンに次のような手紙を書いている。

 「ヤング博士は、私のために組織切片をミクロトームで切り出し、染色する作業をしてくれました。(中略)最初からの合意に基づいて博士は病理組織学的診断を材料の出所を一切知らないままで下すことになっていました。こうするのは、可能な限り厳格な客観的所見を得るためです。私と博士とがお互いに親密な知己となったのは、こういう連携作業を通してです」(プレセット著『野口英世』より)

 また、ヤングは研究に熱中している英世の気持ちを少しでも和らげようと、英世と将棋を指したり、海水浴やピクニックなどにも誘ったりした。英世はほかの人から誘われても「忙しい」と断るが、ヤングからの誘いには必ず応じていたという。

 英世は研究が一段落ついたので、1928(昭和3)年5月9日、本部があるラゴスに打ち合わせに行ったが、そこで黄熱病に感染してしまった。アクラに戻った時には、相当具合が悪かったのでマハフィーの自宅で休んだ。さらに重体に陥り、直ちに入院した。見舞ったヤングに英世は「どうして感染したのか分からない」と言った。感染して10日目に英世は亡くなり、遺体はヤングによって解剖された。

 英世の遺体解剖後発病
 ところが、それから8日目にヤングは黄熱病に倒れた。発病後のヤングは、英世と同じく「どうして感染したのか分からない」と言った。黄熱病にかかわった2人は同じ運命に陥ったのであった。
 


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