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【野口 シカ】 衰退した家運再興願う 〈3/5〉
 

野口 シカ

大正4年、東京見物の時、三越本店で撮った記念写真に納まるシカ(左から2人目)と英世(右)
【35】
 
 野口家の一人娘として育った野口シカの思いは、衰退した家運の再興であった。シカは嘉永6(1853)年、三城潟村に生まれ、当時、曾祖父清太郎、祖父岩吉、祖母ミツ、父善之助、母ミサの6人で暮らしていた。シカが2歳の時、母が家を出てしまい、さらに曾祖父が亡くなり、祖父、父はともに奉公勤めをして、家では祖母と2人の生活になった。

 シカは少しでも家計の助けにと、5歳ごろから近所の家の子守をした。子どものシカは寂しさのあまり、父に会うため、父の奉公先であった猪苗代町まで1人で行ったこともあった。

 シカが生まれる前の野口家は、この地方では中程度の農家であった。寛政9(1797)年の『三城潟村御検地名寄帳さんじょうがたむらごけんちなよせちょう』には、野口家の耕作面積は田が約一町二反歩、畑が約四反歩と記録されている。野口家の母屋は、シカが12歳ごろに雪の重みで一部が壊れ、現在保存されている建物は、文政6(1823)年の創建当初の建物よりひと回り小さくなっていると伝えられている。その母屋の造りからも、かつての野口家の生活ぶりがうかがえる。

7歳ごろに子守奉公へ

 シカは家の窮状を見かね、7歳ごろになると、同村の家に子守奉公に入ることにした。シカと同じ年ごろの裕福な村の娘たちは、近所の寺子屋に読み書きなどを習いに行っていた。シカには寺子屋に通う余裕がなかったので、寺子屋の先生に頼んで手本を書いてもらい、子守をしている時でもお盆に灰を載せて、そこに字を書き練習をしていた。この家での奉公を通じて、厳しく躾しつけられたのが、シカの生涯での糧になったようだ。

 シカは14歳になると、同村の家に奉公に出ることになる。奉公先の紹介で、中小松村の小桧山佐代助と結婚することになる。結婚するとすぐに男の子を産んだが、死産してしまった。明治7年には、双子が生まれるが、1人は亡くなり、1人は長女イヌであった。その2年後に生まれたのが、清作(後の野口英世)であった。

 野口家では待望の男の子が誕生、野口家ではもちろんのこと親戚しんせき中から喜ばれた。にもかかわらず、シカの不注意から清作が囲炉裏いろりに落ち、手を不自由にしてしまったことへのシカの無念さは、周りの人が「シカは人が変わったようだ」と言っていたことでも理解できる。

 清作の手の火傷やけどから8年後に弟清三が生まれた。清作のことで肩に重石が付けられたようだったシカの心に、一筋の光が差し込んだ。ちょうどそのころ、清作は三ツ和小学校で生長に選ばれ、臨時教員として教壇に立つことになる。これを機に清作は教員になる目標を持って勉学に励むことになるので、シカは安堵あんどした。シカは、村の子どもでは誰もが着たことのない洋服を清作に買い与え激励、自らも喜んだ。

子の成長に望みかける
 シカはわが子の成長に望みをかけるとともに、自らの人生を力強く生きた女性でもあった。清作が上京、清三が高等小学校を卒業して子育てに一段落したシカは、「産婆」の資格を取るため勉強した。一時は東京に出て産婆の勉強をしようとも考えていたようだ。シカが45歳の時であった。

 渡米した英世にシカは自筆の手紙を出していた。初めは明治36年、その後は明治45年であった。いずれも子を思う親の心を述べているが、やはり野口家の将来についてであった。英世はシカの思いを実現するため、大正3年、生家の隣に家を購入した。翌大正4年、15年ぶりに英世が帰国した時、恩賜賞の賞金で、シカのために田畑を購入した。シカは再渡米する英世に「これで思い残すことがねぇ」と言った。それから3年後の大正7年、世界的に流行したインフルエンザに罹かかり、65歳の生涯を閉じた。
 


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