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【野口 イヌ】 弟の夢実現へ家を継ぐ 〈3/8〉
 

英世の1周忌に参列した人たちと。前列中央で英世の写真を掲げているのがイヌ。後列左端がイヌの長男栄(英世の養子となった)
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 野口イヌは野口家の長女として、明治7年4月18日に生まれた。この年の干支えとが「戌いぬ」であったのと、前年に生まれた男の子が死産で、またイヌと双子の一人がすぐに亡くなったこともあり、動物の名前を付けると丈夫に育つと言い伝えられていたことから、この名前にしたとのことであった。当時、双子に息を吹き掛けてもらうと風邪が治ると言われ、近所の婆ばあさんや赤子などを抱いた親たちがイヌのもとを訪れた。イヌは5歳ごろから12歳ごろまで吹いてやっていた。

 このころの野口家は貧しい生活をしていたので、イヌも幼いころから母シカの仕事を手伝い、毎日遅くまで働いていた。野口家の長男として生まれた清作(後の野口英世)は、左手が使えなかったし、学校に通うことになるので、シカにとっては、イヌは唯一頼れる働き手であった。

 イヌは小さい時、目が悪かったようだ。当時は、イヌに限らず目が悪い人が多く、近隣には目によく効くという清水や滝などがあって信仰されていた。心配した父佐代助は、あちらこちらの神様などにお参りして、イヌの目のためにお祈りした。その中でも、磐梯山麓ろくにある頭かしらなしのお不動様が御利益あると聞き付け、佐代助は猪苗代町の鍛冶かじ屋でこしらえた剣つるぎを奉納し、その滝の水でイヌの目を清めていた。

 イヌが18歳のころであった。シカは、野口家の跡継ぎを誰にするか思案していた。本来であれば、長男の清作が継げば問題はないのだが、手が不自由で農業ができるものではない。そこでまだ嫁いでいないイヌに養子を迎えて相続させようと考えた。

相続できぬと奉公人に

 相談を受けたイヌは、母の苦労を一番理解している立場であったが、「長男の清作を差し置いて家を相続することはできない」と首を縦に振らなかった。そればかりか、イヌは家を出て猪苗代町の塩谷家に奉公人として住み込んでしまった。困ってしまったシカは、思案の結果、清作に嫁をもらおうと決めた。

 清作としても突然のことであり、結婚については乗り気ではなかった。シカとしても必死の思いであり、親戚しんせきから娘を見つけ、清作を説得して何とか祝言までこぎ着けた。

 ところが清作は町にいるイヌのもとを何度か訪れ、「俺おれが医者になって成功し、姉ちゃんや母ちゃんを楽にすっから」とイヌを説き伏せた。シカも清作やイヌの話を聞き承諾、結婚した娘とは円満に話し合いがつき、娘は実家に戻ることになった。

 その後、野口家では河沼郡日橋村(現会津若松市河東町)の山口善次郎の四男善吾を養子にして、明治27年イヌは結婚、翌年の明治28年には長男栄、同30年に二男寅吉、同34年に三男英栄、同41年に四男英善、大正2年に長女雪を産んだ。

 イヌは清作の抱いた夢を実現するため、家を継いで生業に精を出して働いた。清作が医師試験のため上京する時や、渡米する時など、働いて得たわずかなお金であったが、餞別せんべつを渡した。

 渡米した英世が恩師小林栄へ宛てた手紙の中に「破れ小屋のような家に住んで、姉が苦心している」ことが気になっていることを書いている。子どものいない英世は、大正9年、イヌの長男栄を養子に迎え、イヌの子どもへの支援も惜しまなかった。

記念館の仕事に携わる
 イヌは英世が亡くなると、追悼会などにも出席、昭和14年、野口英世記念館が開館されるとその仕事に携わり、晩年には訪れた人たちとの記念写真などに応じていた姿を知る人も多い。イヌは昭和38年亡くなった。90歳であった。
 


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