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【多くの人たちとの交わり(1)】 高等小の友「竹馬会」設立 〈3/22〉
 

多くの人たちとの交わり

会陽医院時代の清作(英世・左)と秋山義次(右)、吉田喜一郎(中央)
【39】
 
 野口英世はこの連載で取り上げた人だけではなく、多くの人たちとの交わりがあった。それらの人たちは必ずしも英世と同じ道を歩いたわけではないが、英世はその交わりの中で、少なからず影響を受けた。一人一人の記述は詳しくできないが、思いつくままに列記してみる。

 猪苗代高等小学校の友人で、英世が若松の会陽医院で手術を受ける時に立ち会ったのが秋山義次である。秋山は大正3年から昭和10年まで、通算5期県会議員として地方発展に寄与。県議退任後は、千里村(現猪苗代町)の村長として16年間地方自治発展に尽くした。

 英世が大正4年に帰国した時、猪苗代高等小学校で机を並べた人たちが集まり、「竹馬会」をつくった。秋山のほかに八子弥寿平、筒井千吾、鈴木駒吉、酒井庄吉、松江源治、小林英市、神道盛、原玄岱、野田清蔵、佐藤一、六角譲、鈴木重旺、小林才二、戸田求などがいる。私立猪苗代日新館や野口英世記念館の創設に恩師小林栄とともに尽力した。

吉田と良きライバル関係

 若松の会陽医院の書生時代、英世と部屋を一緒に過ごした吉田喜一郎とは良いライバルであった。吉田は松山村(現喜多方市松山町)で農家の二男として生まれ、向学の志を持って会陽医院に入った。英世と優劣をつけがたいほどの秀才で、2人は特別に一部屋を与えられ、夜遅くまで勉強に勤いそしんだ。東京に出て内務省医術開業試験に合格、軍医となり、さらに留学を果たし、海軍軍医大尉として日露戦争に出征した。退官とともに東京の金杉病院に勤務、後年、地元に戻り吉田医院(現喜多方市末広町)を開業、地域医療に貢献した。

 若松時代、英世は「課外特選生」として会津中学校に通っていたが、一緒に机を並べていた中に、山口鹿三、君島八郎、宇川久衛、松江春次などがいた。山口は慶徳村(現喜多方市慶徳町)出身である。向学の志を持ち、会津中学校が開校されることになると入学したが、最年長で20歳になっていた。語学を得意としていて、英語、フランス語、ドイツ語などに堪能であった。英世にフランス語を教えたことでも知られている。キリスト教の伝道者として生涯をささげ、上智大学の創設にもかかわったという。

 君島は仙台第二高等学校から東京帝国大学工科大学、同大学院で土木工学を学び、東京帝大に奉職、その後、ドイツ、フランス、アメリカに留学、その時に英世と再会、旧交を温めた。帰国すると、九州帝国大学教授になり再渡米、英世と一緒の写真が残されている。

 宇川は英世と同郷の三ツ和村(現猪苗代町)出身で、東京高等師範学校を出て各地の中学校教諭を歴任した。戊辰戦争における会津の記述が教科書に「賊軍」と書かれていることを嘆き、会津の歴史を研究して不当であることを働き掛け、ついには抹消させた人である。

 上京して済生学舎に通っていた英世は、東京帝国大学助教授兼済生学舎講師の坪井次郎に細菌学を学んだ。英世直筆の講述『細菌学手記』が残されている。坪井は後に京都帝国大学医科大学長になる。順天堂時代には、英世に論文の書き方を教えた菅野徹三がいる。菅野は相馬藩医の子として生まれ、上京して済生学舎に入り医師試験に合格、順天堂に入った。

 英世が伝染病研究所時代、サイモン・フレキスナーを東京市内各所に案内した後、軍医監であった石黒忠悳は英世を呼んで、フレキスナー視察の様子を詳細に聞いた。異例なことであったが、英世は淡々と説明、石黒は英世の非凡ぶりを直感したという。

稲田の研究に特別な敬意

 ワイル氏病原体スピロヘータを発見した東京帝国大学の稲田龍吉の研究には、英世は特別な敬意を表しており、ニューヨークを訪れた稲田を歓待、自筆の絵画を贈っている。
 


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