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【小林 栄(2)】 「恩師への手紙」(下) 〈10/16〉
 
野口清作から小林栄に出された明治31年10月9日付の書簡。3.2メートルにも及ぶものである
【4】
 
 試験に向け頑張る清作

 猪苗代高等小学校を卒業した野口清作(後の英世)は、手の手術をしてくれた会津若松の会陽医院に働きながら、医師試験のための勉強を始めた。約3年半にわたった若松時代、恩師小林栄に出された手紙は数多くある。勉学に勤いそしんでいた清作は、医師になれるかどうか一度ならずとも不安を感じていた様子がうかがえる。

 お金の苦労をつづる

 明治27年3月31日付の手紙には「物理学を学んでいる日下毅さんより、東京の医学士野川二郎さんは、右手右足が不自由だけども、能く仕事をしている。清作君は後一年くらいの辛抱なので、途中で断念する事のないように頑張りなさいと励まされました」と報告している。

 清作は困難な中にあっても、忍耐と努力によってようやく医師試験に挑戦できるほどの実力を身に付け、明治29年9月、19歳の時上京する。

 10月に行われた前期試験には見事一回で合格したが、清作の前には新たな問題が待ち受けていた。第一にはお金のことである。下宿代が払えず、会陽医院で知り合った高山歯科医学院教授の血脇守之助を頼り、医学院に住み込みで働けるようになった。その時の様子が手紙に書かれている。

 明治29年11月1日の手紙には「下宿料は2ケ月で9円40銭もかかり、友人が事故に遭い、1週間居候されたので1円かかり、私は書籍の殆ほとんどを質に入れ、9円60銭をつくり、不足分は友人に借りました。必要な書籍は離さないで勉学しておりますので、ご安心ください。そこで昨月27日下宿屋を立ち退き、高山歯科医学院で不自由なく勤めております」。

 第2は勉学のことで、後期試験に備えて頑張る姿が見えてくる。

 明治29年11月20日の手紙には「私は明年秋までには、石に噛かじりついても、土をくぐってでも、ウーヤッツケてご覧に入れまする」とある。同年11月30日には「同じ会津の学生でも寒さを知らないで暮らす者も多く居り、私はそのようなことを羨うらやむものではありませんが、せめて書籍くらいは備えて勉学し、1年でも早く成功し、先生への恩義に報いたいと思っています」と書かれている。

 明治30年4月19日には「私は4月1日から済生学舎に入り、油断なく勉学しておりますので、これからもご配慮くださいますようお願いいたします」。

 済生学舎での授業は、朝の7時ぐらいから夜の10時ごろまで行っていたので、守之助の好意で清作は住まいを学舎の近くに移し授業を受けた。後期試験には実技があり、そのために手の再手術が、無償でできる研究用として東京大学の近藤次繁によって行われた。

 明治30年8月23日に「私は去る17日近藤医学士の周旋によって、大学の外科部施療患者となって同氏の手術を受けるため入院いたしました。手術は20日に行われ、目下のところはベッドに寝込んでいます。気分は回復しました。麻酔薬には閉口閉口です」。

 全長3.2メートルに及ぶ長文

 ともかくも清作は後期試験にも合格、高山歯科医学院、順天堂医院勤務を経て念願の伝染病研究所に入所する。明治31年10月9日の手紙は、全長3.2メートルにも及ぶ手紙を書いて、清作の意気込みが感じられる。その中に「北里博士より時々用を命じられ代理を務め、外国に関する諸件を取り扱っています。是これは私にとって大変に有意義なことです。また、伝染病研究所の図書館監督を命じられました。海の内外の諸書のありとあらゆるものが悉ことごとくあります。この仕事は極めて責任が重く、且つ精密を要すものです。北里博士が私を試していると思います」と書かれている。
 


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