私の中の若冲(1)地域のため立ち上がる 狩野博幸さん《下》

 
「社会に敏感な感覚を持っていた若冲の感性に思いを巡らせてほしい」と話す狩野さん

 「日本の絵描きとして極めて異質の存在、それが伊藤若冲(じゃくちゅう)だ」。京都国立博物館名誉館員で、若冲ブームの火付け役として知られる狩野(かの)博幸さんは若冲の特異性、そして現代性を指摘した。

◆「『同時代人』としての感性に思いを巡らせてほしい」

―若冲の生い立ちについて聞きたい。

 「市場として発展した京都の台所・錦小路にある青物問屋の4代目で、23歳で家督を継いだ。絵が好きで大坂の絵師から基礎を学び、中国絵画の模写などにも取り組んだが、次第に自分が実際に見たものを描こうと考えるようになった。鶏(にわとり)を飼い、目の動きなどをずっと観察した。彼の絵の出発点は、この鶏。自然のものを見る基本が培われた」

―他の日本画家にはない異質さとは。

 「大金持ちのセレブなので、絵を描いて生計を立てる通常の画家たちとは根本的に異なる。コストを度外視して高価な絵の具などの材料を駆使する自由さが際立っている。絵そのものの自由さもある。当時、画家が寺などから頼まれて描く絵は、葉が1枚も地面に落ちていないなど、縁起が良い構図であることが前提となっていた。しかし若冲の絵には枯れた植物など不吉なものも描かれている。大金持ちだから生活のために寺などに頼まれて絵を描く必要がなく、自分で描きたいものを描くことができた。そのため、絵にタブーがない。存命当時から人気画家として知られ、円山応挙(1733~95年)と並んで評判になっていた」

―どのような人物だったか。

 「絵のことばかりで、社会のその他のことに一切興味がない、いわゆる『オタク』だと以前は思っていたが、実はそうではないことが分かってきた。錦小路の存続が危ぶまれる問題が発生した際は、問題解決のために立ち上がった。身を犠牲にして取り組み、その間は絵も描かなかったらしい。ただのオタクではなく、社会の問題に取り組む度胸のある人物だった」

―若冲という名前の由来は。

 「『大きなかめの中は空っぽに見えるが、その働きは無限である』という意味の『老子』の一節『大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若(ごと)きも其の用は窮(きわ)まらず』からとられている。冲は沖の俗字。若冲は相国寺住職で漢詩に詳しい大典顕常(だいてんけんじょう)(1719~1801年)と親しく、また当時の一流の文化人売茶翁(ばいさおう)(1675~1763年)に憧れを抱いていた。こうした知識人との交流の中でその名を名乗るようになった」

―2000(平成12)年、京都国立博物館で「没後200年伊藤若冲展」を企画し、若冲ブームのきっかけとなった。

 「『こんな絵描きが、日本にいた』とコピーを付けた。当時は『じゃくちゅう』ではなく『わかおき』と読まれるほど知られていなかったが、4万~5万人入ればいいところに9万人が来場し驚いた。その前後から社会に浸透していったインターネットを活用し、来場した若い人がそれぞれ発信してブームになった。見に来た人は自分が若冲を発見した気持ちになり、そのことが積極的に発信する動機となったのだろう。若い世代が盛り上げてくれた展覧会だった」

―若冲の同時代性、現代性とは。

 「私たちは、江戸時代など昔の人を自分たちとは違う人たちだと捉えてしまいがちだが、そうではない。今回の『東日本大震災復興祈念伊藤若冲展』の企画が持ち上がって、私の頭に最初に浮かんだのは、若冲が大災害からの再生を願って描いた『蓮池図(れんちず)』だった。社会に鋭敏な感覚を持っていた、若冲の『同時代人』としての感性に思いを巡らせてほしい」

若冲バナー