【奥州街道・全6回(6)】 懐深い伊達氏発祥の地

 
桑折町のメーンストリート。洋風庁舎の旧伊達郡役所(奥)や蔵造りなど多様な建物が並び、人や物でにぎわった宿場町らしい懐の深さを感じさせる

 奥州街道をたどる旅は県都・福島市を抜け、伊達氏発祥の地として知られる伊達に入った。国道4号を左に折れると、桑折宿があった桑折町のメーンストリートにたどり着く。明治時代に建築された洋風の旧伊達郡役所を背に、北へほぼ一直線に街が整備され、蔵や寺院、昭和風情を残す商店が立ち並び、どことなく文化の薫りが漂う。旧街道の終着には奥州・羽州街道の分岐点を示す追分(おいわけ)の標柱が立つ。宮城、山形に向かう人にとっては分かれ道、江戸を目指す人には合流点となった。桑折宿は半田銀山があったことで江戸幕府の天領となり、にぎわった。

 通り沿いにある「桑折御蔵(おんくら)」に立ち寄った。桑折町女性団体連絡協議会が切り盛りし、観光案内などをしている。のれんをくぐり、座敷に上がるや否や、お茶が差し出された。その後も「朝食べてきたの」「卵かけご飯でも作るかい」と優しい言葉が飛び交う。旅人が体を休めた宿場町で暮らす女性たちは、見知らぬ人を受け入れる懐が今でも深いようだ。桑折御蔵で働く畠腹(はたふく)桂子さん(78)は「街道は歩く人のためのもの。道があれば人や物、心が動く。立ち止まってみれば、いろいろなものが見えてくる」と語ってくれた。

 追分から奥州街道を北に歩くと、左手に半田山(863メートル)が見える。銀山として江戸幕府の財政を支え、佐渡金山、石見銀山とともに「日本三大鉱山」と評された。操業は昭和20年代まで続いたという。大規模な地滑りで山肌が荒れた時代もあったが、治山事業で豊かな自然がよみがえり、現在は散策スポットとして親しまれる。山の新緑を横目に楽しみながら歩くと、風が強いことに気付く。最初は心地よかったが、歩きにくさを感じてきた。

 「それは俗に言う『半田おろし』だ」。国見町の郷土史に詳しい菊池利雄さん(85)が風の正体を教えてくれた。日本海からの風が、障害物のない半田山の麓に吹き下ろすという。半田山の麓には東北道、JR東北新幹線、東北線、国道4号が走り、交通の要衝となっているが、人力で移動していた当時は強風が旅の妨げになっただろう。半田おろしは火を舞い上がらせ、時には大火の一因ともなったようだ。「藤田は南北に長い街だ。東西に延びていたなら(西から東に吹く半田おろしによって)被害が拡大していたに違いない」。菊池さんは先人のまちづくりの知恵に思いを巡らせた。

 国見町の藤田宿は歓楽街としての顔を持っていた。「銀山で働く人たちは毎日命懸けで稼いだ。明日の命の保証がないから一生懸命遊んだんだ」。菊池さんは代官のいた桑折宿とは異なり、藤田宿では「江戸幕府の取り締まりも緩かった」と推測する。

 藤田宿から県内最北の宿場町・貝田宿に向かう途中に厚樫山(あつかしやま)(289メートル)がある。見る場所によって山の形が異なり、「丸山」「三角山」とも呼ばれる。かつては「国見山」とされたが、理由は言わずもがな「山から国中が見晴らせる」から。町名の由来にもなっている。

 山では奥州合戦最大の激戦「阿津賀志山(あつかしやま)の戦い」があった。この戦で手柄を立てたのが伊達氏初代伊達朝宗だ。「先見の明がある武将がいたからこそ今の地域の繁栄がある」。菊池さんの言葉が印象に残る。くねった道を車で進み、駐車場から徒歩5分の展望台からは福島盆地を一望できた。戦乱の世を生きた武将は街道で何を思い、山の頂から地域の未来をどう描いたか。山頂からは今、田畑や住宅街など穏やかな光景が広がる。

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【 記者の「寄り道」スポット 】

 桑折町のうぶかの郷=写真=(電話024・582・4500)は日帰り入浴もできる宿泊施設。季節ごとにイベントを開いているほか、近くの半田山の麓でホタル観賞など自然を満喫できる。営業時間は午前10時~午後8時。定休日は毎月第2、4火曜日。

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 桑折御蔵(おんくら)=写真=(電話024・582・6007)は桑折町の観光物産情報を発信し、地元の特産品や農産物を販売している。来訪者のお茶のもてなしや郷土料理の提供も魅力の一つ。営業時間は午前10時~午後3時。月~水曜日は定休。

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 厚樫山(あつかしやま)は国見町にあり、山頂の展望台からは福島盆地を望むことができる=写真。麓には東北道や国道4号、東北線が走る交通の要衝にある。東北道国見インターチェンジからは車で15分ほど。山頂まで道路が整備されている。

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