【下野街道・全3回(3)】 先祖の伝統、文化を守る

 
戊辰戦争の激戦地となった関山宿。街道沿いに家々が並び往時の雰囲気は残るが、建て替えられた家屋もあり、峠を挟んで隣の大内宿とは対照的だ

 旧街道をたどる旅は終盤に入り、大内宿(下郷町)近くの大内峠を北進し、会津盆地の西の端から関山宿(会津美里町)を目指した。険しい尾根や沢沿いの道が続く大内峠と氷玉(ひだま)峠の約4キロの難所が待ち構える。大内峠には一里塚や復元されたかやぶき屋根の茶屋、氷玉峠には歩きやすいように敷かれた石畳や通行人を見守る観音供養塔、一里塚などがあり、当時の面影を残す。一里塚は昔のまま道の両側にあった。

 かつては参勤交代や物資輸送など行き交う人たちでにぎわった旧街道だが、時代の変遷で現在は通行者がほとんどなく、一部で倒木が道をふさぎ、草を踏み分けて進むほど荒れ果て、"原生林"のような姿を見せる。歩こうとしたが、クマとの遭遇が頭をよぎり、深入りせず、近くを通るバイパスの県道下郷会津本郷線(通称大内宿こぶしライン)を一路、会津盆地に向かった。

 栃沢集落(会津美里町)を経て関山宿に到着した。道の両側に家々が連なる町割り(土地の区画整備)から、いかにも宿場町といった雰囲気が伝わってくる。関山宿付近は戊辰戦争時、旧幕府軍と新政府軍の激戦の舞台となり、戦火で民家約50軒が、ほぼ全焼した歴史がある。隣の栃沢集落の数戸も燃やされた。大内宿から関山宿までの旧街道沿いには、会津藩士や土佐藩士、宇都宮藩士など戦死者の墓が建立されている。

 「関山宿を突破されると、会津盆地に新政府軍が一気に進軍する。会津藩兵は防御に必死だったことでしょう。一方、新政府軍も進路確保のため負けるわけにはいかなかった」。関山宿の歴史をまとめた広報紙を発行している鈴木昭一さん(64)は当時の戦況をこう説明する。「戊辰戦争後、関山宿の建物は火事に耐えられるよう土蔵造りに変わっていき、統一性がなくなった。隣の大内宿は江戸期の建物が残り、県内有数の観光地になった。峠を挟んでのこの違いは皮肉だよ。だからこそ関山宿の地域おこしが必要なんだ」。鈴木さんは強調した。

 戊辰戦争で関山宿の史料の多くが焼失したという。先祖代々、関山宿の代表を務めている「肝煎(きもいり)」の坂内家には「芳山(ほうざん)様御宿」「明治7年6月5日」と記された木札「関札」が保管されている。関札は藩主らが休泊する際に掲げた表札で、芳山様とは幕末の会津藩主「松平容保(かたもり)」の号を指す。当主坂内巳酉(みどり)さん(75)は「先祖から『殿様がわが家で休息した際に掲げた』と聞いている。肝煎を務めていた証しだ」と語る。関山宿は高齢化や過疎化の問題に直面している。坂内さんは「先祖からの文化、伝統はまだ消えていない。後世にどう伝えていくかが課題だ」と打ち明けた。

 関山宿から福永宿を経て大八郷(おおはちごう)集落に入った。目印は、こんもりとした低山「丸山」。会津領主葦名氏に仕えた千代家が江戸期に「肝煎」を務め、約400年にわたり住んできた。千代家には葦名家から拝領した馬鞍(まぐら)が伝わる。拝領のきっかけについて当主千代洋一郎さん(83)は「秋に先祖と葦名家当主が一緒に丸山を登った。眼下に広がる稲が黄金色に見えたそうで、先祖が『領土の豊かな実りこそが宝』と言うと、褒めたたえられ授かった。先祖はその馬鞍を使って下野(しもつけ)街道を馬で走ったことでしょう」とうれしそうに語った。

 下野街道は廃れても街道にまつわる歴史は伝わっている。その歴史をどのように後世につないでいくか。考える時がきているのかもしれない。

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【 記者の「寄り道」スポット 】

 会津美里町瀬戸町にある創業約90年の山田製菓店(電話0242・56・3338)。名物は茶まんじゅう「山田まんじゅう」(税込み1個80円)=写真。このほか「よもぎまんじゅう」(同120円)や5個入りの「揚げまんじゅう」(同400円)も人気だ。どれも素朴な味で店主山田一夫さん(66)の人柄が出ている。

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 会津美里町本郷地域には会津本郷焼の窯元が点在しており、焼き物の町らしい趣が楽しめる。中でも宗像窯=写真=(電話0242・56・2174)は約300年の歴史を誇る名窯。1958(昭和33)年のベルギー・ブリュッセル万国博覧会で「にしん鉢」がグランプリに輝いた。震災で東北最古の登り窯が損傷したが、有志の支援で復旧した。下野街道

 会津美里町の大八郷集落近くにある丸山には平安末期の後白河天皇の皇子、高倉宮以仁王をまつる高倉観音=写真=がある。100段超の石段を上ると、中腹に社殿があり、荘厳な造りに驚く。京都で戦死したとされるが、会津各地には高倉宮が落ち延びた伝承が残る。鎌倉幕府成立の契機をつくった高倉宮の会津入りを信じ、石段からの景観に当時を重ねた。

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