【陸前浜街道・全6回(4)】 親しまれる「子育て地蔵」

 
広野宿を見下ろすようにたたずむ北迫地蔵尊。現在は子育て地蔵として住民に親しまれている

 陸前浜街道をたどる旅は風光明媚(めいび)ないわき市の波立(はったち)海岸を過ぎ、双葉郡に向かう。少し進むと「八坂(はっさか)道路」と呼ばれる浜街道随一の険しさを誇った山道に行き当たる。江戸時代初期の寛文年間に書かれた「磐城風土記」には「甚だ険阻(けんそ)にして、馬疲れて人苦しむ」と記され、当時の旅人たちの苦労が目に浮かぶ。

 この山道に疲れた旅人が体を休めたのが広野宿だった。広野町全体を見下ろすようにそびえる東京電力広野火力発電所の巨大な2本の煙突に向かって、JR常磐線広野駅前を北に進むと、今も趣を残す静かな家並みが姿を見せる。

 磐城平藩と相馬中村藩の各城下を結ぶ浜街道沿いには、浜通りにあった二つの中心都市の中継点として中小の宿場が整備された。その一つの広野宿には、現在の宿泊施設に当たる旅籠(はたご)や酒屋などが軒を連ねた。「大和屋」「三浦屋」といった当時の屋号は残っているものの、明治時代の2度の大火で宿場の建物の大半が焼失。通りの北側の上り坂にたたずむ北迫(きたば)地蔵尊だけが往時と変わらぬ姿で街を見下ろしている。

 北迫地蔵尊は1788(天明8)年の天明の大飢饉(ききん)の死者を供養するために建立されたという。江戸末期に一度、近隣の林蔵寺に移されたことがあったが、直後の大火で元の場所に戻された。立ち寄った旅籠「三浦屋」の6代目に当たる大和田義英さん(67)が教えてくれた。「今は子育て地蔵として信仰を集め、子どもが生まれると、家人が新しい着物や頭巾を着せる風習が残っている」。毎年8月24日になると、地区の女性らが集まって供養しているという。

 広野宿を後にして国道6号を北に進むと、1868(慶応4)年に戊辰戦争の激戦地にもなった二ツ沼に出る。万葉集に登場する、この地を歌ったとされる「沼二つ 通(かよ)は鳥が巣 あが心 二(ふた)行くなもと なよ思はりそね」の句が刻まれた石碑が、古戦場の碑とともに立つ。

 再び険しい山道を進むと、古くからサケ漁が盛んだった木戸川が流れる田園地帯に出て、木戸宿に着く。木戸宿は上と下の二つの地区に分かれ、現在の木戸駅を降りて左が上町、右に下町の宿場がそれぞれ整備されていたという。下町の通りは道幅が広く旧家も多く立ち並ぶが、東京電力福島第1原発事故の避難指示解除準備区域となっているため、人影はほとんどない。楢葉町によると、昭和初期までこの通りの中央に堀があり、木戸川から引かれた水が生活用水として使われていたという。ただ、この宿場も戊辰戦争の激戦によって街並みが焼失したとの記録が残る。

 住民の生活を潤してきた木戸川、そして井出川という二つの川を越えたあたりに街道の一里塚が残ると聞き、足を延ばした。常磐線の線路のすぐそばで、数軒の民家が立つ一角に町の史跡でもある「井出一里塚」があった。しばらく手入れもされていないのだろうか、周辺は雑草に覆われ、町が設けた説明看板がなければ捜すのも難しい。塚の後ろには浜街道の名残の山道があったというが、木々が生い茂り、その道を見つけることはできなかった。

 この先、浜街道は魚や塩などを中通りに運ぶ拠点としても栄えた富岡宿に通じ、熊川、新山、長塚、浪江の各宿場を経て、相馬藩城下に延びていく。富岡町以北は原発事故に伴う帰還困難区域となり、立ち入ることはできなかった。当時の資料を手にしながら、旅人たちが往来する姿を想像することしかできない。

陸前浜街道

 【 記者の「寄り道」スポット 】

 広野町の二ツ沼周辺に整備された二ツ沼総合公園(電話0240・27・4541)=写真。原発事故の影響で休園が続いていたが、5月に全面再開した。旧県営伝習農場跡地に整備され、滑り台などの遊具施設や広大な芝生広場、サイクリングコースなどを備えているほか、パークゴルフ場も併設する。町内の農産物を販売する直売所などもある。

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 広野町下北迫地区の楢葉八幡神社=写真=は「五里八幡」とも称される。源頼義が鎌倉にある鶴岡八幡宮を起点として街道筋の五里ごとに神社を建立、必勝を祈願したと伝えられていることに由来する。

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 楢葉町北田の高台に整備された天神岬スポーツ公園=写真=からは広大な太平洋が一望できる。この場所はかつて天神山城と呼ばれる城郭も構築され、その遺跡も見つかっている。「学問の神様」として親しまれる北田天満宮が近くにある。

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