【陸前浜街道・全6回(6)】 「松並木」疲れ癒える深緑

 
相馬市の天然記念物に指定されている陸前浜街道の松並木。県道121号沿いの約700メートルにわたって続く

 陸前浜街道をたどる旅は終盤を迎えた。南相馬市を過ぎ、相馬市に向けて国道6号を北上した。日下石(にっけし)川を過ぎて西に折れ、県道121号沿いを進むと、両手に連なる枝ぶりの良い松に目を奪われる。旧街道に残る最長の松並木で、往時は約5キロにわたり緑のトンネルが続いたという。今でも約700メートルが残る。これまで、よく伐採されなかったと驚かされる。標柱に「相馬市指定天然記念物 旧陸前浜街道松並木」の文字を見つけた。美しい松並木は旧街道の趣をたたえる。体に染み入るような深い緑に、疲れが癒えた。

 浜街道は現在、国道6号の別名として使われることが多い。国道6号には復旧事業で往来する大型トラックが目立ち、江戸時代の面影を残す旧街道とは対照的だ。現在と過去が並走する二つの浜街道に挟まれた場所に巨大な摩崖仏(まがいぶつ)「百尺観音」がある。地元の仏師、荒嘉明氏が三十余年を費やして彫った観音座像で、1958(昭和33)年の開眼以来、変わりゆく町並みを見詰めている。

 松並木に後ろ髪を引かれながら歩を進めると、宇多川の南側一帯に広がる、昔で言う「向町」に入った。1611(慶長16)年の中村城築城に合わせてつくられた職人町で、中村宿から見て宇多川の向かいにあったことが名の由来という。旅人を迎えたことから「迎町」ともされた。この町名は現在ないが、向町の呼び名は今でも地元住民に受け継がれている。

 「私たちの年代は当たり前に向町と呼んでいる。城下を支えた気質と気概は今でも残る」。明治から続く小売業、斎藤商店の3代目斎藤基次さん(73)が教えてくれた。当時の面影を求めるのが難しい旧街道筋にも変わらぬ人々の思いがあると知った。宇多川を越えると、相馬中村藩6万石の城下町、中村宿に達する。中村宿は現在の相馬市街地と重なり、碁盤の目のような町並みが印象的だ。築城に合わせて相馬中村藩の初代藩主、相馬利胤(としたね)が京を参考に整備した。1768(明和5)年の地図「中村城下町人町屋敷地図」に詳細な町割りが記されている。

 中村城は、明治時代の廃藩まで約300年にわたって藩政の中心となった。街道から西に進むと城跡があり、石段を上っていくと本丸と天守閣跡がある。天守閣は1670(寛文10)年に落雷で焼失したが、当時の藩主は藩政を優先し、天守の再建を許さなかったとされる。城跡は建物こそ現存しないが、あちこちに案内板があり、当時の雰囲気が伝わってくる。本丸跡の高台にある相馬神社を眺め、黒木宿へと急いだ。

 黒木宿は1747(延享4)年の大火で建物が焼け落ちた。それまで横長だった町は縦長に変わり、岩井宿に改称されたが、地元では黒木宿の名が定着している。黒木宿を過ぎると仙台藩領に入り、現在の駒ケ嶺小付近に位置した駒ケ嶺宿にたどり着いた。

 駒ケ嶺宿、新地宿とも町は東西に長く、これは現在の新地町に通じている。西に行けば旧街道、東に行けばJR常磐線の新地駅があるが、駅舎は東日本大震災の津波で流失。駅近くには明治の学制発布に先んじて開校した県内最古の学校「観海堂(かんかいどう)」が保存されていたが、同じく津波にのまれた。学舎の名残を求める先には荒涼とした光景が広がり、あらためて津波のすさまじさに思い至った。

 旧街道に歴史の面影を求める旅は新地町の沿岸で幕を閉じる。いつか本県の復興の足跡を求め、またこの道を訪ねたい。そう胸に刻み帰路に就いた。

陸前浜街道

 【 記者の「寄り道」スポット 】

 宇多川が注ぐ相馬市の松川浦には万葉集の中で松川浦の情景を詠んだ歌が彫られた石碑写真=が立つ。「松がうらに さわゑうら立ち まひとごと 思ほすなもろ 我がもほのすも」。「松が浦に潮騒が立つように、人のうわさはうるさいけれども、私があなたを思うように、あなたも私を思っているだろう」との意味。現松川浦スポーツセンター内で歴史の痕跡を見て取れる。

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 相馬市馬場野の県道121号沿いのラーメン店「井戸端よしお」(電話0244・26・8179)。一番人気は味玉中華そば=写真。鳥ガラ、煮干し、昆布でだしを取ったスープに細麺が絡み、すっきりしたしょうゆ味が癖になる一杯。自由にトッピングできる「ニラ南蛮」もうれしい。営業時間は午前11時~午後3時と同5時~9時。月曜日定休。

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 相馬市日下石の国道6号沿いにある道の駅そうま=写真。郷土の味を楽しめる軽食レストラン(午前7時~午後6時)、海産物や特産品を扱う物産館(午前9時~午後6時)のほか、地震、津波の被害状況や歴史を伝える情報館(午前9時~午後6時)もある。問い合わせは相馬商工会議所(電話0244・36・3171)へ。

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