【白河街道・全3回(3)】 藩主が旅支度した民家

 
当時の姿そのままに保存されている滝沢本陣横山家住宅。東北地方で最も古い民家のたたずまいを今に伝える

 白河街道をたどる旅も終盤。郡山市湖南町の国道294号を北へと進む。

 途中、視界に入るのが三王坂トンネル、そして三王坂スノーシェルター。道路を覆うスノーシェルターは豪雪地帯に見られる構造物。雪の吹きだまりができやすい場所などに造られる。

 透明の屋根に建築技術の高さを今更ながら感じつつ、冬の厳しさを実感する。ちょっと身構えながらスノーシェルターをくぐる。江戸時代で例えるなら関所を通るような感覚か。郡山と会津の境にある黒森峠を貫く黒森トンネルを抜けて、いよいよ会津に入る。

 会津若松市湊町は猪苗代湖の西に広がるのどかな田園地帯。道路脇に設置された湊町観光協会のガイドマップの看板を見て、訪れてみたい観光地の多さに少し驚きながら、一本道を進んだ。そのまま行くと、国道49号に突き当たり、会津若松市にすんなり入ることができるが、街道は曲がりくねった峠道となる。

 街道は近世初頭まで、山麓に県内有数の温泉地、東山温泉がある背あぶり山を越えていた。しかし、背あぶり山は険しい坂道が続くことから、1627(寛永4)年に武将加藤嘉明によって滝沢峠が開かれた。

 車の擦れ違いもままならないほど道幅が狭い場所も多い。対向車に気を付けながら、くねくねとした道を進む。

 途中、目に付くのが「不法投棄禁止」の立て看板。心ない人が人目に付かないことをいいことにごみを捨てるのだろう。

 「ならぬものはならぬ」。会津で受け継がれる「什(じゅう)の掟(おきて)」の精神が思い浮かぶ。豊臣秀吉や会津の礎を築いた武将蒲生氏郷も通った道。現代人のみならず先人に対しても恥ずかしい行為と思えた。

 峠道が終盤に差し掛かると、右手に見えるのが石部桜。樹齢約600年の古木は大河ドラマ「八重の桜」のオープニング映像を飾り、5月の大型連休になると、観光客でにぎわうが、今はひっそりとたたずむ。来春にまた美しい花を咲かせようと、エネルギーをため込んでいるかのように映った。

 さらに道を進み、若松城下に入る。その玄関口に、当時の姿そのままに保存されているのが、滝沢本陣横山家住宅。国指定重要文化財で、東北地方で最も古い民家とされる。

 会津の歴代藩主が江戸への参勤交代や藩祖保科正之をまつる猪苗代町にある土津(はにつ)神社参拝の際に旅支度を整えた休憩所だ。

 戊辰戦争では城下に攻め入る西軍を食い止めようとして、最後の藩主松平容保(かたもり)が白虎隊に出陣を命じた場所であり、土方歳三率いる新選組が容保を護衛するための拠点ともなった。刀傷や砲弾の痕が生々しく残る。

 家を守る横山操さん(86)は南会津町(旧田島町)生まれ。嫁入りしてから60年がたつという。夫敏彦さんは他界したが、邸内に流れる敏彦さんの「戊辰戦争」を伝えるアナウンスは、朗々として自信たっぷりに響き渡る。

 「鶴ケ城からここまで3キロ。300人ほどの家来を連れた殿様が休憩して、ここから江戸に向かった。籠(かご)を担いで峠を越えるのは容易ではなかったはず」と話してくれた。

 手つかずの自然の美しさや江戸から明治への時代の流れを感じることができる白河街道。先人をしのび、現代人に少しの憤りを覚えながらも、滝沢本陣での横山さんとの出会いで、最後は凛(りん)とした気分にさせられた。

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 【 記者の「寄り道」スポット 】

 猪苗代湖の西に位置する会津若松市湊町写真。気候は青森市とほぼ同じとされ、5月の大型連休にサクラが咲く。笹山地区では旧石器時代の遺跡が発見されており、約2万5000年前から人が住んでいたという。猪苗代湖の小石ケ浜や崎川浜の湖底からは弥生時代の土器が出土している。推定樹齢600年の赤井オオイチョウがシンボル。

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 会津盆地と猪苗代湖を隔てる会津若松市の背あぶり山は、標高870メートル。山頂にキャンプ場やレストハウス、アスレチック広場が整備され、米国に移住した会津出身のおけいの墓碑も立つ。1590(天正18)年、天下統一を果たした豊臣秀吉が背あぶり山からの絶景に感動して茶会を開いたとされる。条件が合えば雲海を眺めることも可能=写真。問い合わせは会津若松観光ビューロー(電話0242・27・4005)へ。

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 会津若松市の飯盛山にある白虎隊十九士の墓写真。周囲には参拝者が手向けた線香の香りが漂う。戊辰戦争で鶴ケ城が炎上していると見誤り、1868(慶応4)年に、主君や家族を思いながら自刃した若き隊士19人の墓が鶴ケ城の方角に向けて建てられている。自刃しようとしたが、生き残り、1931(昭和6)年に78歳で死去した飯沼貞吉の墓は飯盛山の隊士とは離れた場所に建立されている。

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