【羽州街道・全1回(1)】 湧き水飲み小坂峠越え

 
小坂宿の街並み。街道随一の難所とされる小坂峠を控え、宿場の整備が進められた当時の面影を残す

 羽州街道は桑折町の桑折宿を起点に宮城、山形、秋田の各県を経由して青森県まで続く約500キロの道。峠など難所が多い街道として知られ、出羽三山に向かうための信仰の道でもあった。

 桑折町には奥州街道との分岐点を示す「追分」の標柱が立つ。追分は分かれ道を意味する。左に行くと羽州街道、右に向かうと奥州街道。桑折町谷地追分といったように地名に使われるなど、追分は現在も、その存在感を示している。

 「追分には文化が集まった」と話すのは、とうほく街道会議運営委員を務める同町の渋谷浩一さん(55)。江戸時代の参勤交代で羽州街道から13藩、奥州街道からは5藩が追分を通過して江戸に向かったとされる。江戸から戻る時も同じで、追分のある桑折宿で旅の疲れを癒やした。

 18藩の文化が集った要衝には現在、句碑が立つ。

 夕暮れに 心の通う 柳かな

 渋谷さんは「どこか心の余裕を感じさせる句。宿場で文化が成熟していた証拠」と話す。

 今、目にすることができる追分の標柱は10年ほど前、住民有志が復元した。復元に向けて街道の歴史を知ろうと、羽州街道探訪会が設立された。

 渋谷さんはメンバーの一人。探訪会は桑折宿を出発点に、バスで終点の青森県にある油川宿まで視察した。各地で現地の歴史について話を聞くうちに交流の輪が広がり、羽州街道沿いの各地で、県境を越えた住民同士の交流会が開かれるようになった。民間のやり取りが発展して自治体間の防災協定の締結につながった例もある。

 渋谷さんが以前、家系を調べた際、曽祖父が秋田県出身と分かった。先祖のルーツを探ろうと秋田に向かうと、交流会で知り合った街道仲間が助けてくれた。

 「ひょっとして、あそこの渋谷さんでないかい?」。案内してもらったのは、ほとんどが渋谷姓の地区。「その渋谷さんならあの人だ」。あれよあれよという間に曽祖父が眠る寺にたどり着いた。わずか1日の出来事だった。

 「ずっと分からなかったのに驚いたね」と渋谷さん。「街道には文化を紡ぐ歴史がある」。羽州街道が運んでくれた不思議な縁に思いを巡らせた。

 追分を後にして次の宿場の小坂宿に向かった。桑折町から国見町に入る。背後に街道随一の難所小坂峠が見える。伊達氏の軍事、経済の連絡路としても活用された峠だ。今は山形方面への近道として利用する人が多い。

 峠は「産坂(さんざか)」とも呼ばれ、「登る時の苦労はお産の苦しみのようだ」との言葉に由来する。

 江戸時代の紀行文に峠の険しさを表した記述がある。

 老の身に またもこさかの 峰こえて うき世をわたる 道ぞくるしき

 地元の小坂まちづくりの会会長の小坂和也さん(58)によると、小坂宿は、旅人が峠を越える前に一息つく場所になっていたという。「旅人は一気に坂を登っただろう」と小坂さん。なぜなら「途中にゆっくりと休むところがない」からだ。

 小坂宿を抜けて赤い鳥居をくぐると、峠の麓に着いた。石桶のような場所から地下水が湧き出ていた。小坂さんの「峠の水はうまい」との言葉が浮かぶ。一口飲んでみると、確かにうまい。うまく表現できないが、近いとすれば「飲み応えのある、ずっしりとくる水」といったところか。

 かつて旅人は湧き水を飲み、峠を前に萎(な)えそうな心を奮い立たせたのかもしれない。

羽州街道

 【 記者の「寄り道」スポット 】

 半田銀山遺跡と明治天皇行幸(ぎょうこう)記念碑写真=は桑折町の半田地区にある。半田銀山は江戸、明治期に隆盛を極めた。佐渡金山、生野銀山とともに日本三大鉱山と称された。1876(明治9)年には明治天皇が半田銀山を視察。この時、桑折の酒を気に入った天皇一行から「酒を熟成させるように盛んに優秀な人材を育成しなさい」と贈られた「醸芳」との言葉が、現在の桑折町にある小、中学校の校名に使われている。

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 桑折町南半田の割烹仙台屋(電話024・582・3169)=写真=は塩辛や魚の煮つけなど昔ながらの料理が評判。地元産のそば粉を使った「銀山そば」も人気を集めている。かつては仙台で染め物商をしていたことが店名の由来となっている。営業時間は午前11時30分~午後10時。不定休。

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 国見町と宮城県白石市を結ぶ小坂峠の地下水は、摺上川ダム(福島市)が建設されるころまで同町小坂地区の生活用水として使われていたという。小坂まちづくりの会が整備した「産坂木道」の入り口に、地下水が湧き出る石桶=写真=が設けてある。付近には水車もあり、情緒を漂わせている。

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