【相馬街道・全2回(1)】 二つの藩結んだ「塩の道」

 
南相馬市鹿島区上栃窪から八木沢峠へ抜ける道。相馬産の塩や海産物は険しい道をたどって中通りに運ばれていた

 相馬街道は、相馬中村藩と二本松藩が江戸時代の前半に開いた道であり、阿武隈高地を斜めに横断し、両藩を結んだ。

 現在の相馬市松川浦でとれた塩や魚がこの道を通って中通りに運ばれた。相馬藩は江戸への参勤交代の帰路として使ったという。

 街道は奥州西街道とも呼ばれるが、沿線住民には「塩の道」の名で親しまれているようだ。足を鈍らせる寒さと格闘しながら、相馬市の相馬中村城跡を起点に先人の足跡を追った。

 県道相馬・浪江線を南下し宇多川を越え、南相馬市へと向かう。相馬街道には難所の山道と狭い険路があるため、旅人の目印となる一里塚は築かれなかった。

 現在の相馬市街に往時の面影は見当たらない。峠を越える道中の安全を祈願しようと、涼ケ岡八幡神社に立ち寄った。

 「国の重要文化財に指定されていて、桜が咲き競う市内有数の名所」と禰宜(ねぎ)の遠藤政弘さん(68)。桃色に染まる境内を思い浮かべ、春先の再訪を約束して神社を後にした。

 田園風景を眺めながら歩を進める。南相馬との市境の手前から木々が立ち並び、崖を切り開いて道が造られた様子が伝わってくる。

 右手にある「ようこそ万葉の里 かしま区へ」の看板を眺め、南相馬市鹿島区に入ったと気付く。さらに進むと、大きな十字路にぶつかり、右に折れ、八木沢峠の麓を目指した。

 左手に真野川の川音を聞きながら西進。街道筋の頭上で立体交差する常磐道を過ぎると、一気に視界が開け、目指すべき山々の尾根が飛び込んでくる。

 標高400~500メートルはあるだろうか。先人はあの一帯を越えて東西の物流を支えた。

 県道は相馬・浪江線から草野大倉・鹿島線に名前が変わり、沿道の様子も変化する。道筋の田園風景は続くが、沿道の木々からはどこか古めかしさが感じられる。

 道筋には神社仏閣の跡を伝える石塔がある。街道の面影を求めるのが難しい街道で、この一帯には当時の雰囲気が残っていた。

 さらに進むと、右手に、その空間だけ歴史を切り取ったような土蔵が見えてきた。正面には赤い郵便ポストがあり、入り口を見ると「栃窪簡易郵便局」と書かれていた。これほど風情ある郵便局は珍しいと、局長の大谷芳江さん(76)に話を聞いた。

 大谷家は古くからの地主だった。「私が嫁いだ昭和40年ごろ、(街道は)砂利道で道幅も半分くらい。塩を運んだ昔の苦労は想像もできない」と教えてくれた。

 いただいたお茶で体を温め、再出発。八木沢峠の頂上付近にあった「助之観音堂(たすけのかんのんどう)」への案内板を頼りに、街道筋を南に折れて真野川を越える。

 大庄屋だった「上栃窪検断(けんだん)所」跡を過ぎて林道沿いに進むと、八木沢峠に通じる山道が見えてきた。車1台分の道幅があり、足元に気を付ければ進めそうだ。

 意を決して歩みを速めたのもつかの間、山道を埋める残雪で足を止める。雪が解けたころ「確かめに来よう」と、来た道を引き返した。地図上では、この山道が南相馬市原町区から続く県道原町・川俣線と合流して八木沢峠へ続くようだ。

 国道6号と県道を使い峠の入り口に差し掛かった。上り初めてすぐに只見橋があり、ここから右手を眺めると、山あいの美しい眺望が広がる。当時の旅人もこの風景で心を癒やしただろうと、思い描いた。

相馬街道

 【 記者の「寄り道」スポット 】

 相馬市坪田字涼ケ岡の涼ケ岡八幡神社(電話0244・36・4342)=写真=は鎌倉時代から南北朝時代にかけての1330年代の創立。1695(元禄8)年に相馬中村藩主・相馬昌胤(まさたね)が現在の社殿を造営、境内も整備した。美しい宮殿は「相馬日光」とも称され、現存する7棟全てが2012年に国の重要文化財に指定された。

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 二つの土蔵の間に木を巡らした入り口が目を引く南相馬市鹿島区栃窪小塚の栃窪簡易郵便局(電話0244・47・2605)=写真。1974(昭和49)年に故大谷雅久さんが開局し、86年から妻芳江さんが局長を務めている。土蔵は少なくとも明治時代には建てられていたという。

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 双葉食堂は南相馬市小高区の老舗ラーメン店で、東京電力福島第1原発事故に伴い南相馬市鹿島区西町にある、かしま福幸商店街の仮設店舗で営業中。3月末で仮設店舗での営業を終え、準備が整い次第、同市小高区で再開する方針。一番人気は鶏ガラが効いた中華そば(税込み600円)=写真。営業時間は午前11時~午後3時(スープがなくなり次第終了)。木曜日定休。

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