【御斎所街道・全3回(1)】 定信に愛された新地山

 
新地山にある羽黒神社に立つ定信の歌碑。丁寧な装飾が施された石造りの柵に囲まれている

 いわき市の田人町と遠野町の間にある難所の御斎所峠を通ったことから、その名が付いた御斎所街道。江戸時代はコメや塩など物資の輸送路として利用された。

 浜と内陸を結んだ幾本かの道の一つであり、道筋には諸説あるが、白河市の白河城下から石川町を経由して、いわき市に向かう道を選んで出発した。

 城下から旧街道と重なる県道白河石川線に出て北上すると、右手に白川城が築かれた丘陵地が見えてくる。鎌倉時代の1289(正応2)年ごろに、この地を治めていた結城祐広(すけひろ)が本拠とした山城だ。

 すねまで埋まるほど、深く積もった雪に足を取られながら頂上を目指す。かつての旅人も苦労しただろうと想像すると、足の冷たさや足腰の痛みが幾分和らぐような気がする。

 やっとの思いで頂上へ。「奥州街道など周辺の主要な街道や阿武隈川を見渡せ、山城としては絶好の場所だった」。事前に、地元の歴史に詳しい白河市都市政策室長の鈴木功さん(54)から聞いていたため、眺めの良さを期待したのだが、生い茂る草木に邪魔をされる。隙間からのぞく、行き交う車の列が、街道があった昔の面影を辛うじて感じさせた。

 下山して旧街道に戻り、しばらく進むと、「感忠銘(かんちゅうめい)」と書かれた案内板が見えた。

 案内板の先には崖を削った高さ約8メートルの「磨崖碑(まがいひ)」が立つ。祐広の子孫で南北朝時代、南朝側について各地を転戦し、武勲を挙げた結城宗広・親光(ちかみつ)親子の功績を伝えようと、約500年後の1807(文化4)年に山城近くに住んでいた庄屋の内山官左衛門重濃(しげたね)が磨崖碑を造った。

 感忠銘とは、結城親子が後醍醐天皇に忠義を尽くしたことに感動したとの意味で、白河藩主松平定信の揮毫(きごう)と伝わる。

 磨崖碑を見守るように暮らす重濃の子孫の内山重明さん(69)は「ご先祖が建てたのだから、大切にしたい」と話した。

 さらに歩みを進め、平たんな直線沿いに住宅が立ち並ぶ同市五箇地区に入った。長さ71.8メートルと6世紀の古墳としては東北最大級を誇り、地方豪族の白河国造(くにのみやつこ)を祭ったとされる下総塚古墳(しもうさづかこふん)をはじめ古墳時代の16の遺跡が見つかっている地区だ。

 豪族は現在の西白河郡や岩瀬郡の一部などを支配していたとされ、遺跡の数から、この地が栄えていたことがうかがえる。

 住宅地を抜けると、小高い新地山が見えた。歌枕の「人忘れずの山」として知られ、定信も歌を詠んだ。

 世々へても 心の奥に通(かよ)ふらし 人忘れずの山の嵐は

 新地山にある羽黒神社に、定信の歌が刻まれた石碑が立つ。住民が寄付を募り、明治時代に整備した。歌碑の近くには、楽翁(らくおう)と呼ばれた定信がこの地を愛したことを示す「楽翁公愛跡」と刻まれた石製の柱もある。
 歌碑は浅川町の名工、小松寅吉が造った立派な石製の柵に囲まれている。柵には狛犬(こまいぬ)など丁寧な装飾が施され、歌碑と柵のどちらが主役か見分けがつきにくい。

 新地山は地元の人にとって大切な場所であり、「学校行事で訪れた」「山頂で遊んだ」とみんな口をそろえる。近くに住む斎藤伝衛さん(68)が「山頂からは辺り一面を見渡せ、特に春先は那須連峰の残雪が美しい」と教えてくれた。美しい眺望に魅了され、定信は歌を詠んだのだろうか。新緑が映える光景を思い浮かべ、再来を約束して旅を続けることにした。

 【 記者の「寄り道」スポット 】

 白河市借宿にあるしんち山(電話0248・29・2882)は1995(平成7)年にオープンした人気の焼き鳥店。お薦めはパリパリとした食感が楽しめる鳥皮スペシャル(税込み1本250円)=写真・左下。ワサビが味の決め手。皮の脂や濃厚なタレをしつこく感じさせず、何本でも食べられる。営業時間は午後6~10時。水曜日定休。

 白河市東深仁井田の田園菓子工房こんない(電話0248・34・2037)は豊富な種類の和洋菓子を取りそろえる。人気のババロアフレーズ(税込み318円)=写真=はマダガスカル産の香り豊かなバニラビーンズを使用したババロアの上に、矢祭町産のイチゴ2個とイチゴのピューレを載せている。甘いババロアとイチゴの酸味のバランスが絶妙だ。

 県南の神社には浅川町の名工の小松利平、寅吉親子が造った芸術性の高い「狛犬(こまいぬ)」が数多く残り、新たな観光資源として注目を集めている。白河市東下野出島坂口の鹿嶋神社にある狛犬=写真=は寅吉の作。踊っているようにも見え、寅吉の最高傑作との呼び声が高い。