古関裕而『うた物語』TOP
舞踏組曲「竹取物語」
生誕100年記念
舞踏組曲「竹取物語」
竹取物語楽譜(丹治三千男氏提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(3)2009.01.26

生涯を決めた入選の知らせ
 天才作曲家・古関裕而が誕生しました。福商を卒業した翌年の1929(昭和4)年7月、イギリスで行われた国際作曲コンクールに応募した舞踊組曲「竹取物語」ほか4曲の入選が決まり、その知らせは古関の全生涯を瞬時に決定しました。
 当時の新聞は、本県の生んだ医聖野口英世と並ぶ世界的な作曲家の誕生としてセンセーショナルに報道し、伝統と学歴を重視する日本音楽界では、驚天動地の出来事としてとらえられていました。後年、作曲家山田耕筰(こうさく)の知遇を得て日本コロムビアに入社できたのも、まさに本組曲がもたらしたものであり、夫人となる内山金子(きんこ)との出会いと結婚は「竹取物語」の取り持つ恋であったと言えます。

渡英決定と断念
 古関は「竹取物語」入選の知らせを母校福商で最も信頼していた教師丹治嘉市に最初に報告しています。昭和4年12月の手紙では、入選の喜びを次のように述べています。
 《先生、本当に御無沙汰(ごぶさた)致しました。お謝(ゆる)し下さい。(略)
 先生も御承知の通り、私もいよいよ今度、本当に音楽家になる為(ため)、明年2月末渡英致します。英・ロンドンの楽譜出版社J・W・CHESTER LTDで発行している音楽雑誌CHESTERIANを、昨年1月より買って読んでいましたが、本年3月号に全世界より、管弦楽作品の懸賞募集がありましたので、私も作品中より、5曲程で応募致しました。幸に、2等に5曲共入賞致しました。協会からは既に旅費、及びその他の費用として、£(ポンド)400の金が送金されて来ました。今は、私は行くばかりです》
 古関は手紙の中で、しばしば渡英を他人に秘密にしてほしいと依頼し、やがては渡英を断念しています。一つには彼の内気な性格が原因でした。二つ目は「両親が許してくれた」と文面にはあるものの、当時の喜多三は不況のあおりや保証問題で店をたたむほどの状態にあり、経済的に海外留学が不可能だったこと。三つ目には語学力や海外生活への不安などの理由があったに違いありません。
   
舞踏組曲「竹取物語」
福商時代の恩師丹治嘉市先生(丹治三千男氏提供)
    メ  モ                                     
山田耕筰
 1886(明治19)年東京生まれ。作曲家で音楽指導者。東京音楽学校卒業後、ドイツに渡り、作曲を学ぶ。帰国後、わが国最初の交響楽団である東京フィルハーモニー管弦楽団を組織。作品に「からたちの花」「野薔薇」など。1965(昭和40)年逝去。

 


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