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紺碧の空
生誕100年記念
紺碧の空
「紺碧の空」歌碑(古関裕而記念館提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(8)2009.03.09

早大応援団幹部推薦で作曲
 福島市の古関裕而記念館には、来館者感想ノートがあります。第10集にある早稲田大学総長奥島孝康の一言が目を惹(ひ)きました。「初めて記念館を訪れ、早稲田の心の故郷がまた一つ増えたことを喜び、多数の早稲田関係者がこのことを知ってほしいと思いました。久しぶりに学生時代の血のたぎりが甦(よみがえ)り、忘れえぬ思い出になりました」
 このような感動を与えた「紺碧の空」は、どのような経緯で作成されたのでしょうか。
 昭和初期の早慶戦はスポーツが少なかったこともあり、全国的な人気を集めていました。当時、水原茂、三原脩ら野球殿堂入りの名選手が多数活躍していました。しかし、負け試合が多い早稲田では、新しい応援歌を作ろうとの機運が高まりました。
 1931(昭和6)年4月に応募作品が集まり、選者は西條八十(さいじょうやそ)に依頼しました。西條は「これはいい詩だ。しかし、作曲が難しいだろう。山田耕筰(こうさく)ら大家に依頼しないと駄目だよ」と応募原稿を手渡しました。これが「紺碧の空」です。作詞は学生の住(すみ)治男で、彼も古関と同年でした。
 問題は作曲を誰にするかでした。ここで古関を強く推薦したのが、歌手伊藤久男の従兄弟(いとこ)伊藤戊(しげる)でした。応援団幹部をしていた伊藤は「兄貴の友達の古関君に賛成してくれよ。新人だから過去はないけど未来があるよ。国際コンクールの2位に入選したんだよ」(宮尾利雄談)と、熱心に説き廻(まわ)り、難航の末作曲の依頼が決定しました。

全国に広まった「紺碧の空」
 早大はエースの活躍で優勝し、「紺碧の空」は全国に広まりました。古関は「以後、スポーツ音楽の依頼が次々と舞い込んだ」(自伝『鐘よ 鳴り響け』)と述懐しています。当時の応援団長は、「早慶戦で自分の背後から聞こえてくる紺碧の空は、これでもか、これでもかという感じで迫って来た。ことに『すぐりし精鋭の〜』のところは歌に圧倒されそうになった」(「紺碧の空」早稲田大学応援部春秋会)と、音楽の力を認めています。76年には、早稲田大学大隈(おおくま)庭園内に「紺碧の空」の歌碑が建立されました。
   
紺碧の空
早慶戦の応援風景(古関裕而記念館提供)
    メ  モ                                     
内山金子 
 1929(昭和4)年、古関は「竹取物語」などを英国の作曲コンクールに送り、すべて2等に入選しました。快挙を新聞で知った愛知県豊橋市の内山金子(きんこ)は熱烈なファンレターを出し、交際を深めた2人は30年に結婚。金子は80年、69歳で逝去。

 


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