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船頭可愛いや
生誕100年記念
船頭可愛いや
「船頭可愛や」の直筆色紙(古関裕而記念館提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(9)2009.03.16

入社5年目で初の大ヒット
 古関は1931(昭和6)年に「紺碧の空」と「日米野球行進曲」を発表し、作曲家として華々しいデビューを飾りましたが、その後は決定的なヒット曲を出せずにいました。彼は後年のテレビ番組の中で、入社直後のヒット作の出ない苦しい生活を妻と嘆き合ったと話しています。しかし、コロムビア専属作曲家としての給料は、「嘘(うそ)ではないか」(丘十四夫「歌暦50年」)と言われるほどの破格の金額を受け取っており、それは契約料込みの金額である上、さらなるヒット曲を出すという暗黙の了解があった金額でした。
 そんな鬱々(うつうつ)した状況を打開すべく34(昭和9)年春、高橋掬(きく)太郎と「何処(どこ)か取材旅行をしてヒット・ソングを作ろう」と相談、水郷の潮来(いたこ)を訪問して出来上がったのが「利根の舟唄」でした。「間奏のメロディーには是非(ぜひ)尺八を使いたい」(自伝『鐘よ 鳴り響け』)との発想もあり、「利根の舟唄」は入社以来、初のヒット曲となりました。その昔、西行法師や松尾芭蕉、間近では若山牧水や野口雨情らが各地を旅して、土地の風物に接しながら侘(わ)びや寂(さ)びの世界を極めていますが、古関もまた、旅の体験の中に大きな収穫があることに気付いたのでした。

■コロムビアのドル箱
 35年には掬太郎と再びコンビを組んで「船頭可愛や」を作曲しました。この歌に至って、古関の歌謡曲は洗練され大衆の好むところとなり、古関メロディーは全国各地で、口ずさまれるようになりました。この歌は「大海の豪快な漁師を想う歌」(自伝)で、歌手は新人の音丸が抜擢(ばってき)されています。
 「夢もぬれましょ 汐風 夜風」の歌詞と、歌謡曲としては珍しい長調の田舎節は、戦時下の庶民の心をつかみ、一世を風靡(ふうび)しました。「船頭可愛や」は入社5年目にして初の大ヒット曲となり、古関は責任を果たした喜びに安堵(あんど)しました。
 掬太郎は、「『船頭可愛や』は私の作詞だが、これによって歌手音丸も、作曲の古関裕而も、決定的にコロムビアのドル箱的存在となった」(掬太郎「流行歌三代物語」)と述懐しています。
   
船頭可愛いや
品川の妙国寺にある音丸直筆の「船頭可愛や」の歌碑(古関裕而記念館提供)
    メ  モ                                     
音丸 
 げた屋の跡取り娘でしたが、「船頭可愛や」で名を上げてからビクターの勝太郎や市丸を向こうに回してヒットを飛ばし、1時は音丸時代を現出させました。楽譜が読めなかったため、古関はピアノを弾きながらつきっきりで教えたといわれます。

 


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