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暁に祈る
生誕100年記念
暁に祈る
昭和48年、「暁に祈る」歌碑建立の時の伊藤久男との記念写真。古関62歳(鈴木克東さん提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(13)2009.04.27

別離の悲哀歌った戦時歌謡
 1940(昭和15)年は皇紀2600年。国内には「ぜいたくは敵だ」「大政翼賛会」などの言葉が飛び交い、戦争準備が着々と進んでいました。
 福島市など地方都市ではまだ厳しい戦時色は見られませんでしたが、「隣保(りんぽ)互助」をモットーとした「隣組」制が生まれ、廃品回収や防空演習、戦時公債の消化など、国民は次第に戦時体制に組み込まれていきました。
 作詞家野村俊夫は福島民友新聞社時代に培ったリベラリズムの気質から、戦時歌謡の作詞には消極的でした。しかし、40年、コロムビア三羽がらすの評価を不動にした戦時歌謡「暁に祈る」(作詞野村俊夫・歌手伊藤久男)が発表されました。

7回目にやっと許可
 古関裕而は自伝(『鐘よ鳴り響け』)の中で、誕生のエピソードを次のように語っています。
 「昭和15年の春、陸軍馬政局から、愛馬思想普及のため松竹映画『暁に祈る』を制作することになり、その主題歌を作曲してほしいとの連絡があった。野村さんが歌詞を作って軍の関係者に聞かせると、気に入らぬということで、都合7回目にやっとOKが出た」
 「映画は内容の乏しい国策映画で、あまりヒットしませんでした」(丘十四夫(としお)『歌暦五十年』)が、レコードは大ヒットし、この曲で古関と野村の知名度は一気に上がりました。若い伊藤久男の抜群の歌唱力が大衆の胸をうち、戦場へ向かう兵士や家族はこの歌で別れを惜しんだといいます。

■「暁に祈る」は厭戦歌
 野村の晩年の親友外科医和田正一(東京都在住)は、「この歌は悲しい歌だと思います。戦意高揚のマーチではなく悲壮感ある厭戦(えんせん)歌です。この歌は当時の流行歌であって戦意高揚の歌ではありません」と回顧しています。
 古関の戦時歌謡が、多くの人に支持され歌われたのは、別離の悲壮感や望郷の思い、詩を貫く厭戦観にあったことが理解されたからではないでしょうか。
   
   メ  モ                                 
検閲制度 
 野村は「私の歌は『軟弱で人心を堕落させてしまう歌だ』と、検閲は厳しかった。片っ端から検閲による却下で収入の道が塞(ふさ)がれ、やむを得ず戦時歌謡を作った。検閲官は『思想が変わったようで結構です』と大目に見られた」と述べています。

 


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