古関裕而『うた物語』TOP
比島決戦の歌
生誕100年記念
昭和19年、指揮をする古関(古関裕而記念館提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(17)2009.05.25

強いられた戦時歌謡の作曲
 戦争が熾烈(しれつ)さを増してきた1944(昭和19)年、軍部は読売新聞社を通して「比島決戦の歌」の作成を西條八十、古関裕而に依頼してきました。西條の歌詞ができて読売新聞社に集合した時、古関は「軍部の或(あ)る将校が、『この歌にはぜひ敵将のニミッツとマッカーサーの名前を入れてくれ』と強硬に主張して譲らなかった。西條は『人名を入れるのは断る』と語気を強めて反論したが、遂(つい)に折れざるを得なかった」(自伝『鐘よ 鳴り響け』)と回顧しています。
 西條も古関も「この歌によって戦後、戦犯だと騒がれた」(同書)と述懐していますが、結局戦犯責任を問われませんでした。「マッカーサー司令部では、『日本の流行歌には思想がないから問題にする必要はない』という考えであった。おかげで助かった代わり、侮辱されたことにもなる」(高橋掬太郎『流行歌三代物語』)。また、菊田一夫は「幸いなことに第2次世界大戦中の作家の戦争協力は追及されないことになりました」(小幡欣治「評伝菊田一夫」)と述べています。

■古関もまた戦争犠牲者
 芸術家の戦時協力に対しては戦後、論議を呼びました。それについて古関はどのように考えていたのでしょうか。1941年12月8日の「帝国陸海軍は太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」との開戦ニュースを聞いた時、古関は「誰が、どこで、どのような勝算を持って戦闘を開始したのか。しかし始まった以上、勝たねばならない」(自伝)と感じていました。古関はこのような危機的状況の中においても、ヒューマニズムという自分のスタンスを守り通し、戦争の犠牲になった人々への応援歌を書いたと言えるのです。
 私たちは西條や古関たちの作品の責任や善悪を問う前に、先の戦争が軍部の無謀な独走によって引き起こされ、罪なき国民の多くの血が流された責任こそ問うべきではないでしょうか。さらに、古関もまた、戦争によって不本意な作曲を無理強いされた犠牲者である、とも言えるのではないでしょうか。
    メ  モ  
 西條八十の戦時歌謡
 ある人が西條に「なぜ戦時歌謡を作るのか」と尋ねると、西條は川柳『さて事だ馬の小便渡し舟』を引用し、「現在は軍国主義のまっただ中なので、無難に身を処するには、兵隊の代弁をするしかなかった」と述べたといわれています。

 


〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c) THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN